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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県東浦町:緒川コースOGAWA

2018年9月探訪。2018年11月29日作成

【コース】 距離:約7.6km
 町中心部の緒川地区をめぐります。国史跡入海貝塚と緒川城主水野氏,家康生母於大の方のゆかりの社寺をめぐり,於大公園の自然も楽しみます。

≪コース≫ JR・緒川駅〜イオンモール東浦〜五ヶ村川樋門〜伝宗院〜東光寺〜了願寺〜入海神社〜緒川村郷蔵〜越境寺〜善導寺〜乗林院〜不動教会〜緒川城址〜二十四力士の墓〜乾坤院〜於大公園〜東浦町役場〜地蔵院〜JR・緒川駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:JR武豊線・緒川駅



 今回のスタートはJR武豊線の緒川駅になります。大府駅からは武豊線で2駅4分。名古屋駅からは直通の区間快速で約33分で来ることができます。本数は30分に1本程度なので,時刻に注意して利用しましょう。緒川駅は明治19年(1886年)に熱田駅と武豊駅を結ぶ鉄道が開通したときからの歴史を有する駅です。北部に大府駅ができたために翌年に一度廃止になりますが,明治33年(1900年)に再び現在地に駅が設置されました。平成7年(1995年)に高架化され、武豊線では唯一の高架駅になっています。駅前には少女と鳩の像は,桑山賀行氏の「道」という作品といいます。この付近はかつて延長630m,幅18mの入り江があって,江戸時代は年貢米や酒が,大正時代には磨き砂が船で入り江から運び出されるという物流の拠点だったといい,昭和になって入江が埋め立てられ,現在の姿になったといいます。

イオンモール東浦
緒川申新田二区67-8 [公式HP(外部リンク→)]







 緒川駅の東口に出て,50mほど先の次の筋を右折し,150mほど進むと左手にはイオンモール東浦があります。平成13年(2001年)にイオン東浦ショッピングセンターとしてオープンし,店舗面積46600平方メートル,店舗数は約100,駐車場約5000台を備えた知多半島でも最大級のショッピングモールになっており,現在も増床工事が進められています。平成22年(2010年)に立体駐車場棟の一部を改装して作られたエンジョイライフ館は,イオンモールとして初めてブライダル関連の専門店などが入居したといいます。また,2階のフードコート横には東浦町の行政サービスコーナーがあり,東浦町に関する書籍やパンフレットなども手に入れることができます。ショップやレストランで楽しんでじっくりと時間を過ごすといいでしょう。

五ヶ村川樋門
緒川古流作





 イオンモール東浦の北側の道路を東へ進み,「北新田」交差点を越えてさらに東に進み,五ヶ村川第1排水機場のところを川の左側に入って川沿いに進んでいきます。先のところで左手前方向に道なりに進みます。この付近は境川・逢妻川を渡る平成大橋がよく見えます。境川は尾張と三河の国境になっている川で、橋を渡った先は三河国の刈谷市です。



 大きく左に曲がってから100mほど北上すると右手に五ヶ村川樋門があります。五ヶ村川は江戸時代の新田開発の際に湿地の水を排水するために設けられた人工河川で,この南のところで境川に合流します。水を川へ排水するためにこの機場が設けられているといいます。





 五ヶ村川から岡田川沿いに入って300mほど進み,「下家佐川」交差点で国道366号線を渡って交差点の北西側に出て,さらに川沿いの道を進みます。200mほど進んだ先にある橋を渡って,川を左に見ながらさらに200m強武豊線の線路をくぐって進み,県道50号線が宮戸橋で岡田川を渡るところまで進みます。県道の北に見える横断歩道を渡ってそのまま岡田川を渡る屋敷橋へ進みます。昭和2年(1927年)に当時ここまでしか自動車が入れず,「屋敷橋の嫁入り」といわれる花嫁行列ができていたといいます。

伝宗院(知多四国8番)
緒川天白48







 屋敷橋を渡って突き当りまで進んで右折し,続く筋を左折して100mほど進むと右手に伝宗院(曹洞宗)があります。上世山と号し,永禄10年(1567年)に水野与次郎右衛門が,常滑天沢院4世松隠珠厳大和尚を開山として創建したと伝えます。その後東光寺の住職が兼務していましたが,明治7年(1874年)に乾坤院から独立して法地再興されたといいます。山門は正徳元年(1711年)に緒川城址にあったものが寄進されたものといい,最近になって修復されました。本尊は延命地蔵菩薩で,観音堂には仏師春日作という十一面観世音があって33年ごとに御開帳されるといいます。文政6年(1823年)に知多四国霊場の弘法大師が祀られて8番札所となり,弘法堂の脇には小さな妙法さまがまつられて女性の病気や安産に霊験があると信仰されているといいます。

東光寺
緒川屋敷壱区71





 伝宗院の前のT字路を南方向に進んでいきます。ここには黒壁の続く雰囲気ある道が続きます。100mほど細い路地を道なりに進むと右手に東光寺(曹洞宗)があります。医王山と号し,乾坤院の末寺で元々は緒川笠松の地にあり,文明年間(1469〜86)に乾坤院2世逆翁宗順和尚が乾坤院建立の間居住したと伝えています。高台にあって風雨が激しかったため現在地に移されたといいます。本尊は薬師如来で,境内の観音堂には西国33観音を祀るといいます。知多直伝弘法の第13番にも指定されており、直伝弘法が本堂内の左手に設けられているといいます。

了願寺
緒川屋敷壱区90-1 [公式HP(外部リンク→)]





 東光寺の先の突き当りを左折して道なりに100m弱進むと了願寺(真宗大谷派)があります。受教山と号し,創建は不詳ですが,明応3年(1494年)頃は天台宗で帰命寺と称する大府延命寺の末寺であったといいます。大永2年(1522年)の良空和尚のときに改宗して了願寺と改称したといいます。元々も海辺にあったのが天正16年(1588年)に現在地に移されたといいます。境内には尾張の漢学者永井星渚を始めとする永井家の墓があります。徳川家康の家来である永井直勝を始祖とする星崎庄牛毛荒井村(現名古屋市南区鳴尾町)の永井家の菩提寺がこの了願寺だったといい,新田開発によって村を開いて製塩業にも力を注いだといいます。その一族の1人が尾張の漢学者として知られる永井星渚(1671〜1818)で、家塾を開いて主に一般庶民に学問を教え,数百人の子弟を設けたといいます。多くの著書があり,「野の大儒」と呼ばれたといいます。名古屋市南区には永井星渚の屋敷跡があります(名古屋市南区星崎コース参照)。

入海神社
緒川屋敷壱区48



 了願寺から50mほど東へ進んだ突き当りを左折して100m弱進むと左手に入海神社があります。創建は不詳ですが,八幡社など9社が合祀されており,このうち八幡社は元々今の緒川小学校の校地内にあり,初代緒川城主の水野貞守が創建し,永禄元年(1558年)に水野信元により修造されたと伝わり,昭和42年(1967年)に合祀されたといいます。寺宝の中には元和3年(1617年)の銘のある正宗短刀[町文化],永正8年(1511年)の銘のある備前の長船長刀[町文化]があります。





 境内の上り坂を上がった先の左手には入海貝塚[国史跡]の石柱が設けられています。入海貝塚は大正の始めに確認され,昭和20年代の発掘により神社の拝殿と本殿の東に幅約10m,長さ約80mにわたって続いていることがわかり,ここで発見された縄文早期の土器はこの付近の基準資料となっており,入海式土器と命名されています。他にも石器や骨角器・土偶などが見つかっており,東海地方の縄文文化を考えるうえでも重要な貝塚といい,出土品は東浦町郷土資料館で見ることができます。現在は眼下に干潟が広がり,豊かな海の恵みを感じられる場所だったと考えられています。西の住宅地には縄文晩期の遺跡で昭和16年(1941年)の調査で人骨などが発見された宮西貝塚があります。参道には,昔緒川城にあって夜になるとたびたび啼いたといわれ,寛延2年(1749年)に奉納された夜啼き石があります。また境内には明治から大正にかけて活躍した緒川の書家である中川南巌の碑が設けられています。

緒川村郷蔵
緒川屋敷弐区58付近



 入海神社から戻って200mほど南下し,2本目の筋を右に入った先には社宮司(しゃぐじ)があります。各地に残る石神を祀った自然信仰の一つで,かつて入江を望む中腹にあったと考えられるこの場所に,海上からの悪霊などが入らないように設けられたものと考えられています。



 右に入る前に戻ってさらに少し南下すると左手に緒川村郷蔵があります。江戸時代に尾張藩の年貢米を名古屋に出すために保管した倉庫といい.不作の際の備蓄米も貯蔵されていたといいます。昔は今の国道付近まで船が入ってきたといいます。



 郷蔵の東には緒川コミュニティセンターと緒川児童館があります。かつてこの一帯の広場は緒川村の豪農で酒造もしていた塚本源左衛門の屋敷があったといい、明治12年(1879年)から昭和18年(1943年)までは緒川小学校があったといいます。この地区には緒川村慶長検地帳[町文化]が残されています。これは慶長13年(1608年)に伊奈備前守忠次が行った検地のもので、現存する検地帳としては最古の部類に属するといいます。江戸時代の田地や屋敷地の基本台帳となったもので、当時の様子を今に伝える貴重な史料といいます。



 さらに南下した次の交差点のところには東浦村道路元標があります。道路の起点などを示す標識で大正9年(1920年)に設置され,ここが村の中心とされました。

越境(おっきょう)寺
緒川屋敷弐区23







 東浦村道路元標のある交差点を右折して西へ200mほど登り坂を進むと越境寺(顕本法華宗)があります。海量山と号し、応仁2年(1468年)に京都妙満寺10世日遵上人による創建といいます。かつては衣浦湾を望む高台にあり,目の前の海を越えれば三河であったことから寺号になったと考えられます。天正3年(1575年)に緒川城主水野信元が織田信長の命令で殺害されると,当時の住職が信元の弟であったことから寺が破却させられました。その後、刈谷城主となった水野忠重の家臣上田無甚斎によって現在地に再興されたといいます。境内裏手には切支丹灯籠[町文化]があります。江戸時代に武士が訪れて寺に保管をお願いしたものといい,いわゆる隠れキリシタンの信仰の対象だったといいます。尾張藩では寛文年間(1661〜73)に大規模なキリシタンの弾圧があり,その際にこの地に移された可能性があるともいわれています。材質は天城石で,他の灯籠にはない特徴的な形をしているといいます。

善導寺
緒川屋敷弐区38 [公式HP(外部リンク→)]







 越境寺から東に戻って入口の十字路を右折して南下すると,すぐ右手に善導寺(浄土宗鎮西派)の入口があります。53段の階段を登って本堂に進んでいきましょう。海鐘山悟眞院と号し,嘉吉3年(1443年)に音誉上人により開創されたと伝え,文明18年(1486年)に鎌倉光明寺の信誉隆転上人によって再興されたといいます。元々は海沿いの低地にあったものが度々の水害に見舞われたため,慶長10年(1605年)に緒川城主の水野分長によって現在地に移されたといいます。徳川家康の生母である於大の方は,生誕の地に近かったというこの寺を菩提所としており,三尊阿弥陀如来像・善導大師自画像などを寄進しており,彼女が寺を訪れた際に着用したという夜着も残されています。寺には異国降伏祈願施行状[県文化]が伝えられています。これは鎌倉幕府が各地の寺社に守護を通じて命じた敵国降伏の祈祷の施行状であり,正安2年(1300年)に行われたものといいます。文永の役(1274年)・弘安の役(1281年)の2度の蒙古襲来のあとも,長期間にわたって幕府が再襲来を警戒していた様子を今に伝えるものといいます。



 善導寺の南には塔頭の乗林院があります。慶長13年(1608年)に善導寺の九誉雪底を開山として創建されたといいます。明治5年(1872年)の学制発布の際に緒川村・石浜村共同の郷学校がここにおかれたといいます。



 その後,乗林院の左手の上り坂を進んでいきます。この坂はおじょう坂と呼ばれています。



 200mほど坂を進んだ美容院の奥の筋を左に入って100mほど進むと立派な木曽御嶽本教の不動教会があります。大正14年(1925年)に設立され,昭和13年(1938年)に移されたといい,祭神は御嶽大神です。

緒川城址
緒川古城35



 不動教会から東方向へ下り坂を道なりに進み,マンションの先の突き当りを右折します。そのまま道なりに150mほど進んだ2つ目の十字路を右に入ったところには道しるべの弘法があります。右かりや道,左大野道とあり,元の位置は不明ですが大正時代に移転したといいます。







 左折する前に戻り,さらに南下して次の十字路を緒川城址の案内板にしたがって左折して進んでいくと小高いの丘が特徴的な緒川城址[町史跡]があります。緒川城は文明年間(1469〜87)に水野貞守により創建されたと伝えられています。その後,水野氏は勢力を広め,4代の水野忠政の時代には知多半島北部から刈谷にかけての一帯まで勢力を拡大しました。享禄元年(1528年)に忠政の子として,徳川家康の生母である於大の方がこの緒川城で誕生しており,城址には於大出生地の碑が建てられています。天正3年(1575年)に織田信長の命令で当時の城主・水野信元が殺害され,それ以来緒川城は廃城となって古城と呼ばれるようになったといいます。現在石碑と案内板が立っている小さな公園が主郭の一部といい,絵図によると東西83m,南北95mに及んだといいます。主郭の北西部に土塁が現在も残されているといいます。尾張と三河の境で,織田や今川などの大名に挟まれて苦難の歴史を歩んだ水野氏に思いをはせ,城址を散策するといいでしょう。
 なお,緒川城の北にはかつて高薮城という城があったといい,室町時代に竹内主計頭以下5代の居城だったといい,のちに緒川城主の水野忠守,分長の居館となったといいます。

二十四人力士の墓
緒川上之山18-6付近



 緒川城址から南下してきた十字路のところに戻り,さらに西に進みます。道なりに100mほど進むと広い道に突き当たるので右に進み,道なりに100mほど進んだ左手には二十四人力士の墓があります。かつて24人力といわれた力の強い男があり,男のいたずらに村人が困り果てていました。そこで,村人が相談をしてその大男を生き埋めにしてしまいました。その後,男の祟りによって村に伝染病が流行するなどしたため,墓をつくり供養したといいます。



 二十四人力士の墓から西の「緒川小南」交差点の先を左に入ったところの個人宅には大樹寺裏一ノ門[県文化]があります。寛永15年(1638年)に建立された一間一戸の高麗門といい,元々は大樹寺(岡崎市)の一番東に設けられていた門といい,その後現在地に移築されました。大樹寺の他の建造物と合わせて県の文化財に指定されています。

乾坤院
緒川沙弥田4 [公式HP(外部リンク→)]





 「緒川小南」交差点から西に200m弱道なりに進むと於大公園の入り口があり,ここに展望台が設けられていて公園を一望することができます。



 さらに200mほど進み,次の筋を左に入って,さらにその先の筋を右に進みます。すると左手に乾坤院(曹洞宗)の入口があります。宇宙山と号し,文明7年(1475年)に緒川城主水野貞守が城の守護を目的として菩提寺として建立し,城から見て乾(北西)と坤(南西)の方向にあったことから寺の名前がついたといい,乾坤が壮大な天地を意味することから宇宙山という山号になったといいます。その後,水野氏からの庇護を受けて堂宇が整備され,江戸時代になると家康の生母於大の方の生家の菩提寺として尾張藩からも手厚い保護を受け,61の末寺を有する曹洞宗の中本山として発展しました。寺宝には鎌倉時代後期の作で岩上に座して琵琶を奏でる姿が描かれているという絹本著色弁財天像[県文化],鎌倉時代末期の作で釈迦三尊を中心に達磨大師,聖徳太子,弘法大師など諸尊が集合した姿が描かれた絹本著色諸尊集会図[県文化],曹洞宗開祖の道元の代表的著作である75巻の紙本墨書正法眼蔵写本[県文化]があり,現在は名古屋市博物館にて保管されているといいます。



 南側の入口にある総門[町文化]は寛永7〜8年(1630〜31年)頃の建立と伝え,比較的木柄が太く大柄の薬医門で,現存する唯一の緒川城の遺構ともいい,江戸前期の曹洞宗伽藍の総門を今に伝えるものといいます。





 奥には天和2年(1682年)の建立といい,全体的に禅宗様式に統一され,小規模ながらも県内では数少ない二重門として貴重なものという山門[町文化],本尊である釈迦牟尼仏を胎内に収めた大通智勝仏がおさめられていたという本堂がありましたが,平成28年(2016年)の火災にて被害を受けたため現在は再建工事が行われています。本堂左手に進んだ先には緒川城主水野家の墓が並ぶ水野家四代の墓所[町史跡]があるといいます。水野家中興の祖水野忠政のものと,南一段下に緒川高薮城に入った水野忠守,下総山川城主になった水野忠元,正保2年(1645年)に岡崎城主となった水野忠善の3代のものといいます。続いて北方向へ,16体の羅漢が置かれている羅漢庭という石庭を横に見ながら進んだ先には堅雄堂があるといいます。寛文10年(1671年)に岡崎城主だった水野忠善が,先祖供養と曾祖父にあたる水野忠政の顕彰のために設けた堂で,水野家代々の位牌が祀られているといいます。堂の名前は忠政の法名の「大渓堅雄大居士」によるといいます。なお,於大の方より寄進された千手観世音菩薩像がかつて祀られていましたが,現在は新しく設けられた観音堂・慈雲閣に安置されています。ただし,火災により堅雄堂も現在は工事が行われています。



 また,境内東に祀られている宇宙稲荷は元々緒川城に祀られていたものといい,於大の方が岡崎城の松平広忠(家康の父)に嫁ぐ際に,この稲荷の札を持って縁組に反対する人々からの襲撃から守られたという言い伝えがあります。

於大公園
緒川沙弥田2-1







 乾坤院の宇宙稲荷から南東方向に進んだ先は於大公園になっています。乾坤院の東側に設けられた自然地形を生かした公園で,面積は12.1ha,四季折々の草花や昆虫,野鳥などを楽しめる公園になっています。特に60本のしだれ梅,400本の桜並木があり,春には多くの人で賑わいます。また進んだ先の左手にはプールも設けられており,おもしろ自転車が楽しめるサイクル広場やバーベキュー広場,格安で利用できるマレットゴルフ場,端に池を望むデッキも設けられた芝生広場など家族連れが1日楽しめる施設が充実しています。





 公園の中央には,公園事務所も兼ねたこのはな館があり,於大の方の夜着の柄である菊の花びらがモチーフになっているといいます。公園の自然などの講習会や展示会などのイベントが行われます。



 このはな館の北側にずっと進んでいくと絶滅危惧種にも指定されているオニバスの保全活動が行われている池があります。元々石浜地区の飛島池にて自生していたものといいます。熱心な保存活動の結果,少しずつ愛知県の生育数は回復してきているといい,今後の活動を見守りたいところです。8月〜9月初旬には見事な葉や赤紫色の花を楽しむことができます。またその南に進んだところには薬木100種,薬草60種が栽培されている薬木薬草園があります。





 於大公園を東に抜けてすぐに左手の上り坂を進んでいった先には緒川城主三代の墓所[町史跡]があります。緒川城主の初代水野貞守,2代賢正,3代清忠の墓で,高さ1mほどの五輪塔になっています。右には4代忠政の兄である成政と,その子の成清の墓といいます。高台にあって東浦の眺められるよい場所に位置し,今でも東浦を見守っている様子が伝わります。

東浦町役場
緒川政所20 [公式HP(外部リンク→)]





 於大公園の東側から出たところから道なりに北東へ150mほど進み,突き当りを右折して100m強進むと右手に東浦町役場があります。東浦町は明治39年(1906年)に森岡村の一部と緒川村,石浜村,生地村,藤江村が合併して東浦村が誕生し,昭和23年(1948年)に町制を施行して現在の東浦町になりました。現在地に役場が設けられたのは昭和43年(1968年)になります。入口のモニュメント付近では,4月下旬に東浦町の花にもなっている卯の花が白い花を咲かせます。延慶3年(1310年)に編著された「夫木和歌抄」に後徳大寺左大臣実定の句として「白浪のかかる汀(みぎわ)とみえつるは をがわの里にさけるうの花」とあり,それ以降緒川が卯の花の里として定着したといいます。



 東浦町役場から東に200m弱進み,「東浦役場東」交差点の1つ手前の筋を左折します。100m弱進んだ右手には八郎兵衛の常夜灯があります。当時の緒川の南のはずれに明治28年(1895年)に建立されたものといい,当時は日清戦争直後で国威が高揚した時期だったといいます。なお,この通りは知多四国の遍路道に当たり,一丁ごとに設けられる道しるべの丁石が残されています。

地蔵院
緒川屋敷参区39





 八郎兵衛の常夜灯から200mほど北上した左手には地蔵院(曹洞宗)があります。永楽山と号し,創建は平安時代と伝えられており,宝暦元年(1751年)再建の棟札を有するといいます。本尊は木像の地蔵菩薩で,昔海岸に漂着したものでかき殻が付着していたことから,「かき殻地蔵」と呼ばれたといいます。境内には沢瀉(おもだか)の井戸があります。これは緒川城主水野清忠の奥方が子供を授かるためにかき殻地蔵に願をかけ,満願の日に井戸の水を汲もうとすると一茎のオモダカが浮かび,その葉の上に永楽銭が載っていたといいます。オモダカと永楽銭を持ち帰ったところ間もなく子宝を授かったため,産湯にもこの井戸水を使い,のちにオモダカと永楽銭を水野家の家紋にしたといいます。他にも境内には樹齢約300年というイブキ[町天然]の大木や,元々緒川城にあって気味の悪いうなり声をあげたといううなり石があります。



 地蔵院から150mほど進んだ十字路の手前右手には札木の辻跡の案内板があります。江戸時代にはこの北西に石垣があって,柵の中に切支丹高札・浦方高札が掲示され,祭礼や行事の際の村人の集散の場所だったといいます。

ゴール:JR武豊線・緒川駅



 札木の辻跡の案内板のところを右折して東へ200mほど進むと,ゴールの緒川駅西口に到着します。帰宅する際は武豊線を利用して大府駅まで2駅4分。名古屋駅までは約35分になります。本数は30分に1本程度なので,時刻を調べて利用するといいでしょう。

写真使用数:60

←前:森岡コース / 愛知県知多郡東浦町 / 次:石浜コース→

ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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