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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県半田市:岩滑コースYANABE

2019年12月探訪。2020年1月20日作成

【コース】 距離:約9.8km
 新美南吉ゆかりの地である岩滑地区をめぐり,半田運動公園を経由して板山地区に至るコースです。新美南吉の童話の舞台をめぐり,秋には矢勝川の彼岸花も楽しめるコースです。

≪コース≫ 名鉄・半田口駅〜山神社(岩滑東町)〜新美南吉の生家〜岩滑八幡社〜常福院〜光蓮寺〜ででむし広場〜矢勝川沿い〜新美南吉記念館〜ごんぎつねの湯〜(岩滑新田)神明社〜新美南吉の養家〜半田中央公園〜板山八幡神社〜安養寺〜板山神社〜知多バス・板山バス停






(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:名鉄河和線・半田口駅





 スタート駅は名鉄河和線の半田口駅です。普通列車のみの停車で,名鉄名古屋駅や金山駅方面からは阿久比駅まで特急または急行に乗車し,乗り換えるのが便利で,所要時間はおよそ40分程度を見ておけばいいでしょう。普通列車の本数は平日は1時間に4本程度,土休日は1時間に2本程度なので,電車の時間は調べてから利用するのがいいかもしれません。半田口駅に到着すると,駅舎やホームに新美南吉の童話「ごんぎつね」にちなんだ絵が描かれており,新美南吉の故郷にやってきた予感を感じさせる駅になっています。

山神社(岩滑東町)
岩滑東町3-96



 半田口駅から出て目の前の筋を左折し,東へ200mほど進んだ2本目の筋を左折します。さらに道なりに200mほど進み,突き当りを右折したところに岩滑東町の山神社があります。地元の小さな神社ですが,毎年4月に行われる岩滑の山車まつりの際には,この神社の前まで山車の曳き回しが行われるといいます。



 山神社から西に戻ってそのまま400mほど進むと左手に金比羅社があります。土手の上に設けられているのが特徴的な神社です。隣接して設けられている神社には,この付近に伝わる「ぼたさん」に関する昔話が書かれています。かつて信仰されていたという「ぼたさん」が,昭和になってこの神社に移転するまでのいきさつが書かれています。

新美南吉の生家・渡辺家
岩滑中町1-83



 金比羅社からさらに西に進み,半田口駅北の踏切を渡って県道まで進みます。ここを左折して次の筋を右折するところには,この先の新美南吉ゆかりの名所に関する案内標識が建てられています。







 案内標識から100mほど進んだ右手には,新美南吉の生家・渡辺家があります。童話作家の新美南吉は,大正2年(1913年)7月にこの家で父渡辺多蔵と母りゑの次男として生まれ,生後間もなく亡くなったという兄と同じ正八(しょうはち)と名付けられました。4歳で母りゑを亡くすまでこの家で暮らし,養子に出されたのちも戻って生活を行い,文学作品の執筆も行ったといい,昭和18年(1943年)の南吉が亡くなる2ヶ月前にはのどの痛みをこらえながら「狐」「小さい太郎の悲しみ」などの最期の作品を執筆した場所といいます。建物は正面から見て左が継母の志んが営んでいたという下駄屋で,右が父多蔵の畳屋になっています。道から見ると一階建てに見えますが,裏に回ると二階建てであることがわかる家になっています。戦後は人手に渡ってしまっていましたが,その後半田市によって購入され,南吉が住んでいた当時の間取りに復元されて昭和62年(1987年)から公開されています。建物の北側には昭和41年(1966年)に建てられた「新美南吉生い立ちの地の碑」があり,昭和62年(1987年)に建てられた南吉自筆の「大丸煎餅」句碑があります。



 新美南吉の生家の前には,常夜灯があります。火伏せの神として知られる秋葉三尺坊の信仰者である「秋葉講」により文化5年(1808年)に建てられたものといい,昭和30年頃までは道中の家々が交代で灯明を灯していたといいます。新美南吉の小説「音ちゃんは豆を煮ていた」には,子どもたちがヨモギの葉をつぶして団子にする「草つき遊び」が登場しており,地元の子供たちが遊んだ跡という穴が常夜灯に残されています。新美南吉自身も生家の前にあった常夜灯は幼い頃からの遊び場だったといい,8歳の時には常夜灯の前で遊んでいたら急に呼ばれて,そのまま養子に出された,と書いてあるそうです。

岩滑八幡社
岩滑中町7-80





 新美南吉の生家の先の筋を左手に50mほど進むと岩滑八幡社があります。創建は不詳ですが,最古は元和2年(1616年)の棟札を有するという歴史を持ち,岩滑の唯一の旧村社として地域から信仰を受けたといいます。鳥居は神明鳥居で八幡社のすぐ横に神明宮の本殿も設けられています。元々は神明社が本社だったものが,戦国時代にこの地を支配した中山氏が八幡社を勧請してそちらをメインにしたといいます。新美南吉は,生家とこの先にあるはなれとの間を移動するときにこの神社の境内を行き来していたと伝えられ,童話「ごんぎつね」もこの神社の境内の若衆倉の前で茂助じいさんから聞いた話として創作されています。



 境内には毎年4月第2日曜日とその先日に行われる岩滑地区祭礼で曳きだされる2輛の山車[市民俗]の山車蔵があります。天明元年(1781年)の記録には8月15日に八幡宮の祭礼が行われ,2輛の山車が曳き回れていたことが記されているといいます。現在収蔵されている山車のうちの1つは嘉永2年(1849年)に建造され,大正8年(1919年)に改造されたという義烈組八幡社で,もう1つは大正7年(1918年)に他の地区から買い入れて改造したという西組御福車です。祭礼の当日は三番叟や囃子・神子が行われ,大型の山車が見事に曳き回されるのも祭りのみどころといい,新美南吉が亡くなる2か月半前に書かれた童話「狐」にもその様子が描かれているといいます。夜には新美南吉記念館で花火が打ち上げられ,盛り上がるといいます。また,旧8月15日には「元祭礼」と呼ばれる神明社の大祭が行われるといいます。



 岩滑八幡社の西側から出た先には,童話「ごんぎつね」で兵十が麦をといでいたという赤い井戸が残されています。常滑焼を利用した井戸筒で,鉄分を多く含んだ土が利用され釉薬もかけられていないため赤っぽい色をしているといいます。質素な兵十の家に似合う赤い井戸といえそうで,「ごんぎつね」の世界にひたることができます。



 赤い井戸から少し西に進んだところには,新美南吉の生家・渡辺家のはなれの家跡の案内板があります。父の多蔵が大正15年(1924年)に購入した家といい,南吉と弟の益吉はこちらのはなれで寝起きをしていたといいます。昭和5年(1930年)に火事で焼失しますが立て直され,南吉が病に伏せて亡くなった場所ともいいます。昭和34年(1959年)の伊勢湾台風で倒壊し,現在は別の家が建てられて案内板のみが残されています。

常福院
岩滑中町7-23





 はなれの家跡の案内板からそのまま西へ50mほど進むと右手に常福院(西山浄土宗)があります。甲城山と号し,永禄2年(1559年)に元岩滑城主の中山勝時が城跡に自らの菩提寺として建立したといいます。寺は天保6年(1836年)の観音開帳の際に罹災して全焼したといいますが,その後信徒の浄財により現在の本堂・庫裏が再建されたといいます。本尊は阿弥陀如来で,四国直伝弘法の第23番札所に指定されています。本堂前の樹高6mほどという常福院のソテツ[市天然]は寺の創建時からある立派なもので,この地を支配していた中山氏の家老が植えたものと伝えられています。江戸時代初めまで岩滑を支配していた中山氏は,新美南吉の童話「ごんぎつね」などにも中山さまとして登場しています。新美南吉にとっても幼い頃の遊び場で,夏の盆踊りも踊ったなじみの深い寺といい,本堂の裏ヤブに住むタヌキの親子の童話「ひとりげた」の舞台と言われています。



 常福院から南に進んで右手に曲がったところには大野街道の案内板があります。港町として繁栄した大野(現,常滑市)と三河方面とを結んだ街道で,三河方面から関西へ抜ける裏街道として利用されていたといいます。農閑期にため池の築堤などで全国に出稼ぎにいったという「黒鍬衆」と呼ばれた人々が行き交ったことから,黒鍬街道とも呼ばれています。知多半島の港町である大野は,新美南吉の童話「おじいさんのランプ」でも書かれているといいます。



 大野街道の案内板から,光蓮寺の案内に従って西に進み,突き当りの手前を北に進んだところには,哲学者・森信三の養家跡があります。明治29年(1896年)に武豊町の端山家で生まれた森信三は,2歳でこの地にあった森家に養子に出されてました。その後,京都帝国大学哲学科で学び,「人生二度なし」の真理を根本信条に,宇宙の哲理と人間の生き方を探求する「全一学」を提唱したといいます。

光蓮寺
岩滑中町6-45







 大野街道を西に進んで突き当りを左折し,100mほど南下した右手には光蓮寺(真宗大谷派)があります。尚英山(しょうえいざん)と号し,寺伝によると元々は光明寺(常滑市大野)の一坊で明光庵と称し,貞享元年(1684年)に光蓮寺と改称されました。その後,住職の本多善明師により明治24年(1891年)に現在地に移転しました。浄土真宗の門徒に生まれた新美南吉は,小学生に頃にこの寺でお経を習っていたといい,「こんごろ鐘」や「百姓の足,坊さんの足」など,この寺に由来する題材をもとに創作した南吉作品も存在するといいます。この住職であった忠孝師は,中学時代に南吉が発行した同人誌「オリオン」を購入するなど,南吉のよき理解者だったといいます。

矢勝川沿い
岩滑中町付近



 光蓮寺から北に戻って,案内板にしたがって300mほど北上したところにはででむし広場があります。矢勝川に通称・安川が合流するところに設けられている広場で,ででむし(カタツムリ)の像やキツネのすべり台が設けられています。「ででむし」の名前は,新美南吉が安城高等女学校で生徒たちと作っていた詩集に掲載した詩にちなんだものといいます。地域の子供たちの遊び場となっています。







 ででむし広場からは,矢勝川沿いのウォーキングコースを西に進んでいきます。新美南吉記念館までの約1.5kmに整備されたこのウォーキングコースは,童話「ごんぎつね」の舞台となったのどかな里山風景を楽しむことができる人気スポットとなっています。「ごんぎつね」には「ひがん花が赤い布のように咲いている」との描写がありますが,毎年9月下旬には約300万本と言われる彼岸花が咲き誇る圧巻の景色となり,平成20年(2008年)からは「ごんの秋まつり」が毎年行われています。この彼岸花は「ごんぎつね」の描写に合わせて地元の人たちによって植えられたもので,矢勝川は兵十がはりきり網を持ってうなぎを取ろうとした場所とも考えられており,「ごんぎつね」の世界にひたることができます。最近は「ごんぎつね」などにちなんだ田んぼアートもウォーキングコース沿いに作られるようになりました。





 ウォーキングコースを進んでいくと,やがて橋を渡って進みます。この付近は北に権現山を望む景色を楽しむことができます。権現山も新美南吉の作品にゆかりの深い山で,ごんぎつねの像などが山に設けられています(阿久比町の権現山コースで訪問しています)。



 この先のところでウォーキングコースから出て,新美南吉記念館の方に向かう途中には,花のき村があります。新美南吉の作品「花のき村と盗人たち」に由来して名付けられた施設といい,秋祭りの時期はテントでの出店やキッチンカーなどが立ち並んで多くの人で賑わうエリアといいます。

新美南吉記念館 [有料施設]
岩滑西町1-10-1 [公式HP(外部リンク→)]





 花のき村から100mほど西に進んだ左手には,新美南吉記念館があります。記念館の周辺には,「ごんぎつね」や「手袋を買いに」などの新美南吉作品にちなんだモニュメントが設けられており,新美南吉の世界にひたることができます。平成22年(2010年)には当時の天皇皇后両陛下が記念館をご訪問になり,それを記念した碑も設けられています。平成25年(2017年)には新美南吉生誕100周年記念事業が行われ,記念館周辺も整備されました。
 「東の賢治,西の南吉」と呼ばれる日本でも代表的な童話作家である新美南吉は,大正2年(1913年)に現在の半田市岩滑中町で生まれ,幼くして母を亡くして養子に出されるなど不遇の子供時代を過ごしました。学生時代から同人誌などを発行し,半田中学校(現,半田高等学校)を卒業後,雑誌『赤い鳥』に童話を童謡を投稿します。昭和7年(1932年)には,小学校の国語教科書で採用されている「ごんぎつね」が掲載されました。小学校の代用教員や安城高等女学校などの教員を務め,29歳の若さで結核により亡くなるものの多くの童話を世に送り出し,今なお多くの人に愛されています。







 平成6年(1994年)に開館した新美南吉記念館では南吉の生涯に関する展示を楽しめるほか,南吉の自筆原稿や手紙などの貴重な資料も見ることができます。「ごんぎつね」「手袋を買いに」などの代表作のジオラマや,ビデオシアターで作品を鑑賞することもできます。また季節ごとに企画展も開催されており,新美南吉に関して最新研究など様々な側面から学ぶこともできます。建物は半地下式で芝生で覆われた波打つ屋根の特徴的なシルエットであり,平成6年(1994年)度のまちなみ建築賞も受賞しています。







 新美南吉記念館の南側には隣接して童話の森が整備されています。「ごんぎつね」などに登場する「中山さま」の城跡と言い伝えられている場所であり,里山に「ごんの小径」などの遊歩道が整備され,新美南吉作品ゆかりの像や碑などが設けられ,南吉作品にふれながら散策を楽しむことができます。地域の子供たちの遊び場にもなっており,休日等には子どもたちの遊ぶ姿を見ることもできます。





 なお,新美南吉記念館から南に600mほどのところの北谷墓地には,新美南吉の墓があります。29歳の若さでなくなった新美南吉の墓は,昭和35年(1960年)に父の渡辺多蔵によってこの地に建てられました。案内板が丁寧に掲示されており,だれでも訪れることができるようになっています。童話「ごんぎつね」の中で,ごんが隠れていた六地蔵もここに移されているといいます。
 新美南吉記念館から西に200mほど県道を進んだ「岩滑西町」交差点付近には,「しんたのむね」と呼ばれる里山があるといいます。童話「牛をつないだ椿の木」の舞台になったところといい,江戸時代に開発された「新田の棟」が名前といいます。昭和30年代までは清水が湧き,人々ののどを潤していたといいます。

ごんぎつねの湯 [有料施設]
平和町5-73-2 [公式HP(外部リンク→)]





 「岩滑西町」交差点から県道を西へ500mほど進み,知多半島道路を橋で越えた先の筋を左折して150mほど進むと右手に天然温泉ごんぎつねの湯があります。新美南吉のふるさとに設けられた天然温泉が楽しめる銭湯で,純和風の浴室と日本庭園が楽しめる露天風呂があるといいます。地下1500mから湧き出す天然温泉は県内有数の59.2℃という高温といい,滝つぼ湯では源泉のまま落差3.5mを落とすことで温度を45℃ほどに落としているといい,熱い温泉好きにはたまらないといいます。休憩所なども設けられており,ウォーキングが終わった後などにひと汗流すのもいいでしょう。



 ごんぎつねの湯から県道に戻って,さらに西に少し進んだところには知多半島道路の半田中央インターがあります。当初は半田常滑インターと称し,平成17年(2005年)に中部国際空港につながる知多横断道路が開通した際に半田中央インターと改められ,南知多方面と常滑方面が分岐するジャンクションが併設されました。

(岩滑新田)神明社
平和町6-37



 「半田中央インター」交差点で県道を右折して100mほど北上し,続く十字路を右折したところに観音寺(西山浄土宗)があります。明和6年(1769年)に岩滑新田の観音堂として創建されたといい,明治の廃仏毀釈で廃寺となります。その後,明治16年(1883年)に復活して,昭和22年(1947年)に観音寺と改称されました。本尊は聖観世音菩薩立像といいます。





 観音寺の東に隣接して,(岩滑新田)神明社があります。延宝9年(1681年)に岩滑新田が開発された際,当初は山の神が折戸山に祀られたといいますが,元禄4年(1691年)に伊勢神宮から天照大神を祀って創建したといいます。明和9年(1772年)に本社が改造され,弘化2年(1845年)に一畝が除地になったといいます。その後社殿が拡大して,大正7年(1918年)に村社に列せられ,岩滑新田の氏神として信仰されたといいます。



 神明社の裏手には,岩滑新田の祭礼の際に曳きだされる平井組神明車の山車蔵があります。毎年4月第2土日に行われる岩滑新田の祭礼では,平井組神明車と奥組旭車の2輛の山車が曳きだされ,少ない人口の中で山車2輛を維持するところに地区住民の祭りに対する並々ならぬ意欲を感じさせるといいます。土曜の夕方には山車が提灯で飾られた状態で曳き回され,日曜日は神明社から秋葉社・津島社を経て,神子,三番叟,神楽が奉納されるといいます。この平井組神明車は大正7年(1918年)の建造といい,昭和51年(1976年)まで途絶えていた曳き回しを復活したといいます。

新美南吉の養家・新美家 [有料施設]
平和町7-60





 (岩滑新田)神明社の先を左折して100mほど北上し,続く筋を左折します。さらに50m強先の2本目の筋を案内板にしたがって右折し,北上したところには新美南吉の養家・新美家[市文化]があります。新美南吉の生母りゑの実家で,裕福な農家でしたが,大正10年(1921年)に跡取りがいなくなったために当時8歳だった南吉が養子として迎えられました。その後,祖母との二人きりの生活をこの家で送ることになりますが,さびしさに耐えきれずわずか5ヶ月ほどで生家の渡辺家に戻ったといいます。祖母の死後は無人となって荒れていましたが,故神谷幸之氏を中心として整備・保存が行われ,現在はかみや美術館(有脇町)の分館として管理されています。裏の土蔵は南吉に関する資料館になっているといい,母屋と土蔵の見学は事前予約して見学料を支払うことによりできるといいます。童話「小さい太郎の悲しみ」などにも登場したといい,新美南吉の世界に思いを馳せることができる家になっています。



 ここから岩滑新田に祀られている小さな神社をめぐりながら進んでいきます。まず新美南吉の養家から南の筋に戻って,さらに西へ150mほど進んだところには秋葉社が祀られています。



 さらに秋葉社を越えた次の筋を左折して50mほど進むと,津島社があります。これらの神社は,岩滑新田の祭礼が行われる際に,山車が立ち寄るスポットになっています。



 津島社から南下した十字路を右折して300mほど進むと,左手には奥組旭車の山車蔵があります。大正5年(1916年)に建造されたという山車が収められており,岩滑新田の祭礼の際に曳き回しが行われます。



 奥組旭車の山車蔵の先を左折し,その先の県道に出たところにも秋葉社が祀られています。この田園風景広がる地区に多くの社が祀られていることは,庶民の信仰心の深さを感じることができます。



 秋葉社から500mほど県道を西に進んだ先には宝来ひろばがあります。地元の農産物の直売などが行われている施設で,岩滑新田の祭礼の際にはこのひろばで山車の曳き回しが行われるといいます。

半田運動公園
池田町3-1



 宝来ひろばから西に100mほど進んだ「宝来町」交差点を左折します。この交差点から半田運動公園に向かう道は知多半島サイクリングロードに指定されており,この道を進んでいくことになります。知多半島サイクリングロードは,武豊町から大府市にかけて知多半島内陸部を南北につなぐ道で,全長はおよそ31.1kmに及びます。



 「宝来町」交差点から350mほど進んだ左手には,半田運動公園の入口があります。半田市の西武丘陵地に設けられた総合公園で,子どもが楽しめるちびっ子広場や広大な芝生広場,ファミリーで楽しめるデイキャンプ場などが備えられ,特に休日には多くの子供連れが公園を訪れ賑わっています。他にも陸上競技場や多目的グラウンド,テニスコートなどスポーツ施設も備えた総合運動公園になっています。また,半田市の花であるサツキが約1万本植えられているさつき園もあり,季節の花を楽しむこともできます。







 入口から進んだ駐車場のところには,大池古窯[市史跡]の保存施設があります。半田運動公園建設の際に発見された平安時代末期頃(12世紀〜13世紀前期)の窯跡であり,1〜8号窯の合計8つの窯が発見されました。丘陵地の地山を掘りぬいて作られた穴窯と呼ばれる窯で,壺や鉢など多くの遺物も出土されたといいます。保存施設では,8つの窯のうち状態のよかった2・4・5号の3つの窯跡が保存され,案内板や休憩施設などが設けられています。この付近の半田市・常滑市・阿久比町にまたがる地域は知多古窯址群の中でも古窯が密集して見つかっている場所で,周辺にも多くの古窯址群があるといいます。







 大池古窯の展示施設から公園内を南下して,公園の南側に向かって進んでいきます。途中には陸上競技場をはじめ,ふれあい広場やステージ,デイキャンプ場などを見ながら進むことができます。公園内にはウォーキングコースも設けられていますので,時間に余裕があれば季節の花なども楽しみながら公園内を散策するのもいいでしょう。

板山八幡神社
神代町1-61





 半田運動公園の南側出口から出て左手に進み,300mほど進んだ突き当りを右折して下り坂を進んでいきます。そのまま300mほど進んで県道に突き当たった右手に板山八幡神社ががあります。創建などは不詳ですが,最古は文禄2年(1593年)の棟札を有し,同じく寛文9年(1669)年の棟札とともに「智多郡日役村」(成岩村の枝郷で神社付近の村のこと)の人々から信仰を受けていたことが伝わっています。明治19年(1886年)には村社に列せられました。毎年4月第2日曜日に行われる板山地区の祭礼の際には,この神社で板山獅子舞[県民俗]が奉納されます。日役村に代々受け継がれてきた獅子舞で,その起源は定かではありませんが獅子頭を納める箱には天保6年(1835年)の銘があり,このころには獅子舞が行われていたと考えられます。戦後になって江南市今市場の今村新丸に代表が入門して幣の舞などの芸能が伝えられたといい,現在では地元の青年団が習得する芸能として受け継いでいるといいます。幣の舞が演じられてから獅子舞が奉納されるといい,女形であるため嫁獅子あるいは女獅子ともいいます。

安養寺
板山町10-5





 板山八幡神社から県道を東へ400m弱進み,日役公会堂を越えた先の筋を左折したところに安養寺(西山浄土宗)があります。篠島山と号し,近江の浅井長政の家臣安養三郎右衛門の遺児源右衛門が,旧主や亡き父の菩提を弔うために近江正法寺(滋賀県蒲生郡日野町)に入って出家し,慶長6年(1601年)に一寺建立を誓って南知多町の篠島に浄土宗西方寺の末寺として創建したのが始まりといいます。宝永5年(1708年)に成岩の常楽寺の光空周明上人が寺号を寺を譲り受けて現在地に建立して,開山したといいます。境内には安政年間(1854〜60)に板山神社の東にあって移されたという観音堂を始め,同時期の建立という本堂,天保11年(1840年)に成岩村の武家屋敷を移築して設けた書院,明治36年(1903年)建立の特徴ある山門など歴史ある建物が並び,元禄11年(1698年)建立の子安観音など江戸時代の石造彫刻も並ぶといいます。



 安養寺の入口手前には日役組神力車の山車蔵があります。毎年4月第2土日に行われる板山地区の祭礼の際に曳き回される4輛の山車のうちの1つで,明治12年(1879年)の建造といい,大正5年(1916年)に大改造が行われているといいます。日役車は板山八幡神社への奉納を中心に行われ,からくり三番叟や巫女舞なども行われるといいます。

板山神社
板山町7-9





 安養寺の入口から県道をそのまま道なりに200mほど東へ進み,「板山町10」交差点で県道を越えたらそのまま南へ400mほど進みます。進んだ先の突き当りを右折し100mほど進んだ突き当りのところに板山神社があります。創建は不詳ですが当初は春日社と称し,元禄10年(1697年)の棟札にも春日大明神とあるといいます。明治43年(1910年)に海部郡立田村(現,愛西市)に鎮座していた八幡社と神明社が合祀され,名称を板山神社に改めて村社に列せられたといいます。嘉永6年(1853年)に奉納されたという三十六歌仙扁額を所蔵しているといいます。毎年4月に行われる板山祭礼行事の際の中心的な神社の1つで,祭礼の際には4輛の山車が神社に集結します。昭和34年(1959年)の伊勢湾台風で大きな被害を受け,一時は祭礼が中止されていましたが,昭和39年頃から新しい形態で復活して現在に至るといいます。
 他にも板山地区には,板山万歳[市民俗]が伝えられており,地元の保存会によって継承されています。イベントの際や,小学校などの総合学習の際などに演じられます。初代家元山本重光の努力の結果,知多市寺本から伝承されたもので,尾張万歳の流れを組むものといいます。



 板山神社から北上して200mほど進んだ右手には本板山組本子車があります。板山祭礼行事の際に曳き回される4輛の山車の1つで,宮本車として神社にて三番叟のからくりが奉納されるといいます。山車の創建年代は昭和初期といい,彫刻は大正期のものといいます。板山祭礼行事の際は,他にも東に小板組旭車の山車蔵,西に大湯組花王車の山車蔵があり,合計4輛の山車が各地区を練り歩きます。

ゴール:知多バス・板山バス停



 元板山組本子車の山車蔵から西へ150mほど進んで,次の十字路を右折します。100mほど進んで県道に突き当たったら,右折して50mほど進むとゴールの知多バス・板山バス停があります。知多バスの常滑半田線を利用することができ,名鉄の青山駅まで約11分,知多半田駅まで28分,常滑駅までは約21分で行くことができます。本数は1時間に1〜2本程度の運転で,あらかじめ時刻は調べておく安心です。

写真使用数:69

←前:乙川・有脇コース / 愛知県半田市 / 次:半田中央コース→

ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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