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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県半田市:亀崎コースKAMEZAKI

2019年12月探訪。2019年12月19日作成

【コース】 距離:約7.1km
 昔ながらの町並みと坂が特徴的な亀崎地区をめぐります。衣浦湾の眺めやユネスコ無形文化遺産にも登録された亀崎潮干祭ゆかりの史跡を楽しみ,月の名所としても愛された人気の地域です。

≪コース≫ JR・亀崎駅〜平地神明神社〜愛宕神社〜潮風の丘緑地〜尾張三社〜立川美術館〜鶴城寺〜妙見寺〜東光寺〜街かどサロンかめとも〜秋葉社〜望州楼〜浄顕寺〜三軒茶屋〜亀崎海浜緑地〜神前神社〜海潮院〜大坂〜北浦神明社〜JR・亀崎駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:JR武豊線・亀崎駅







 スタート地点はJR武豊線の亀崎駅です。武豊線を利用して,東海道線の乗換駅である大府駅からは約15分で来ることができます。名古屋駅からは大府駅で乗り換えも含めて約40分ほどの時間を見ておくといいでしょう。本数は日中はおおむね30分に1本程度です。
 亀崎駅の開業は明治19年(1886年)で,熱田〜武豊間に愛知県で最初の鉄道が設けられた際に設置されました。当初東京から名古屋まで中山道経由で鉄道が建設されることになったため,その鉄道機材を武豊港から運ぶために設けられた鉄道といい,当初は客車と貨車の混合列車が1日2往復し,1時間45分で結んだといいます。亀崎駅の駅舎はその開業当時から残る日本最古の現役駅舎といわれており(火事で一度焼失し,再建されたものという説もある),歴史を感じさせるものになっています。「明治19年1月」の銘のある建物財産標や駐輪場になっている旧ホームの石組みなど,ぜひ昔ながらの駅を味わってからウォーキングをスタートしましょう。

平地神明神社
平地町1-72





 亀崎駅から進んだ先の「亀崎駅前」交差点を右折し,300mほど南下した「亀崎常盤」交差点を右折して武豊線の踏切を渡ります。さらに150mほど進んで右に少し道が折れた先の左手に入る筋を進み,200mほど進んだ筋を左に入り,さらに突き当りを左に進んだ先に平地神明神社があります。創建は不詳ですが,「乙川文書」によると18世紀には獅子舞が勧請され,乙川本郷から平地新田に招かれて最盛期には獅子六頭,打拍子一組が勤めたといいます。しかし天明8年(1788年)に不和となり,一時獅子舞が中止されたことなどがわかっているといいます。寺宝に明治16年(1883年)にこの地に住んでいた竹内善七が奉納したという平地神明社の算額[市民俗]があります。算額は主に江戸時代に発達した算術(和算)の問題が書かれた絵馬になります。明治時代に西洋数学が導入されることにより,和算が廃止されて算額の文化も徐々に衰退していきましたが,その終末期に神社に奉納された算額になります。当時の算額の文化がどのようなものだったのかや,半田の民俗知識の普及を考えるもので貴重なものといいます。境内にはいくつかの保存樹も設けられて住宅地の中の自然を感じさせます。かつては市の天然記念物にも指定されていたクロガネモチもあったといいます。



 平地神明神社から正面の道を南下して突き当りを左折し,さらに100mほど進んで武豊線の線路に突き当たったら右折して線路沿いに200mほど進みます。次の踏切のところを左折して踏切を渡り,300mほど進んだ信号を右折して400m強進むと左手に愛宕神社があります。創建などは不詳ですが,明治2年(1869年)に乙川村の神主の榊原伊勢守によって社寺御役所宛に提出された文書があるといいます。現在は境内は公園になっており,近くにはため池もあって市民の憩いの場になっています。

潮風の丘緑地
潮干町1-38







 愛宕神社から200mほど南下すると国道247号線に突き当たるので,ここを左折して東に進みます。300mほど進んだ押しボタン式の横断歩道のあるところの南側には潮風の丘緑地の入口があります。緑地に向かう場合は遊歩道を進んで先の潮風橋を渡って進みましょう。平成8年(1996年)に整備された緑地で,緑地内には東側の潮の広場,西側の風の広場という2つの広場が設けられています。海風を感じながら散策することができ,トイレもあることからウォーキングの休憩地点としても利用できます。

尾張三社
亀崎町10-140





 潮風の丘緑地の入口から国道247号線を東に進んで300mほど先のルートインのホテルの手前を左折した先には尾張三社があります。文政6年(1823年)の勧請といい,亀崎の地に流れ着いた津島神社の御神符が流れ着き,けがしてはならないと海に戻したものの2日後に再び漂着したため,75日昼夜の御神楽を奉納し,この地に社を営んでまつったのが始まりといいます。その後に熱田神宮と真清田神社の御神符を祀って尾張の三社が祀られる現在の形になったといい,現在の本殿は慶応元年(1865年)に設けられたといいます。亀崎の地で毎年5月に盛大に行われる亀崎潮干祭の際は,この神社が神輿をとどめる御旅所となり,からくり人形の舞も奉納されて賑わうといいます。



 尾張三社のところから国道に並行する細い道を東へ100mほど進むと左手に盛田金しゃち酒造[公式HP(外部リンク→)]があります。1848年に天埜酒造として創業したという老舗の酒蔵といい,「初夢桜」「金鯱」などのブランドで清酒を販売し,数々の賞も受賞しているといいます。1800年代から残るという古い建物が印象的で,亀崎の古い町並みの空間にもマッチしています。直売所が設けられているほか,インターネットのWebショップでもお酒を購入することができます。



 盛田金しゃち酒造から200mほど進んだ次の筋を右折し,その先の信号のところの交差点には尾州亀崎湊大川松江越渡船場跡の碑があります。明治になって武豊線が開通したのちも,尾張と三河を結ぶ渡船は人々の重要な足になっていたといい,ここからは碧南市松江町までの渡しが設けられていたといいます。昭和31年(1956年)に衣浦大橋が開通するまで人々に利用されていたといいます。

立川美術館 [有料施設]
亀崎町6-81 [公式HP(外部リンク→)]





 尾州亀崎湊大川松江越渡船場跡の碑から国道を北上して次の筋を左折し,さらに150mほど道なりに進むと左手に立川美術館があります。江戸時代後期に栄え,神社仏閣や山車などを彩る「宮彫り」という伝統彫刻の一派という立川流彫刻の復興と継承を目指して設立された美術館といい,研究所も併設されています。美術館では江戸時代の彫刻や山車の模型など,立川流彫刻の作品が鑑賞でき,江戸時代の技を感じることができます。併設して黒壁舎というカフェも設けられており,ゆっくりと時間を過ごすのもいいかもしれません。



 立川美術館のそばには別館としてかめざき鉄道ジオラマ館が設けられています。現役最古の駅舎といわれる亀崎駅をテーマにした資料館で,亀崎の街を走るNゲージの鉄道模型を運転することができるという子供にも楽しめる施設です。その他にも亀崎の歴史を語る民具なども展示されており,その歴史について学ぶこともできます。使われている倉は,元々は材木問屋で明治以降は醸造業を営んでいたという朝倉屋が江戸時代後期に建築し,大豆蔵として使われていたものといいます。



 立川美術館の道路をはさんだ反対側には,旧山二酒造屋敷門があります。山二酒造は元禄2年(1689年)創業の亀崎でも最古の造り酒屋といいます。門高が高く作られており,当主が馬に乗って出入りしていたと考えられています。



 立川美術館の北側には,貴重な明治の建物で,名古屋の商家風の建築という旧伊藤三綿店舗があります。昔は名古屋伊藤呉服店(現在の松坂屋)の支所だったといい,昔は荷物を運ぶためのトロッコの線路が横に引かれていたといいます。

鶴城寺
亀崎相生町3-75



 立川美術館から北上した先の「亀崎7丁目」交差点を越えた50mほど先の左手に鶴城寺(真宗大谷派)があります。鈴木山と号し,嘉永4年(1849)に亀崎出身の医師山本道庵が,一家の菩提を弔うために熱田円福寺の塔頭宝珠院から譲り受けて創建したといい,当初は後に訪れる浄顕寺の境内だったといいます。明治11年(1878年)に浄顕寺から独立し,明治15年(1982年)に現在地に移されたといいます。

妙見寺
亀崎相生町3-32





 鶴城寺からさらに国道を100mほど北上すると左手に妙見寺(日蓮宗)の入口があります。本堂までは階段を登って進んでいきましょう。円長山と号し,寺伝によると文化年間(1804〜18)頃に亀崎の船乗りたちがが妙見菩薩を安置し,信者数の増加したとともに現在地に移されたといいます。当初は定徳寺(名古屋市中村区)の末寺で妙見堂と称しましたが,昭和27年(1952年)に妙見寺になったといいます。「亀崎の妙見さん」として地域から親しまれているといい,煩悩を洗い流してくれるという水洗い浄行菩薩も祀られているといいます。

来教寺
亀崎町5-18





 「亀崎7丁目」交差点に戻り,左折して東に進んでいきます。ここからしばらくは亀崎地区の古い町並みが続き,お地蔵様なども祀られています。



 「亀崎7丁目」交差点から50m強進んで左の細い路地に入ったところには来教寺(真宗大谷派)があります。教光山と号し,元々は浄顕寺の一部で阿弥陀堂と称していたところを,明治9年(1876年)に知多郡成岩村(現,半田市)にあったという教光坊を合併して独立の一寺になったといいます。寺の前には大野街道の案内板があります。大野街道は大野町(常滑市)から半田市を抜けて三河方面へと続いていた街道といいます。

東光寺(知多四国番外札所)
亀崎月見町3-14



 来教寺から東へ進んだ次の筋を左折して細い道を200mほど進んでいきます。次の東光寺に向けて弘法坂と呼ばれる急な登り坂へと入っていきましょう。







 弘法坂を登った先には東光寺(西山浄土宗)があります。亀宝山と号し,明治33年(1900年)に三河平坂出身の実空誠感上人が当地に説教所を設けたのが始まりで,同36年(1903年)に和歌山市永山にあった東光寺から寺号本尊を移して,寺院として創建されました。明治40年代には,実空誠感上人によって「年弘法」と呼ばれる弘法大師像62体が奉安されました。これは弘法大師誕生から入定までの62年間を1年一体で表したものです。この「年弘法」が祀られていた弘法堂は昭和20年(1945年)の三河地震で倒壊しましたが,昭和55年(1980年)に再建されて現在でも45体の弘法像を拝観することができ,弘法大師の生涯を感じることができます。日限大師,厄除け大師,衆生済度大師をまつる「三体大師堂」が平成7年(1995年)に再建され,本堂や納経所も最近になって改修されるなど新たなたたずまいになっています。

亀崎公園
亀崎町5-97



 東光寺から戻って,左手から合流する道があるところから20mほど進んだ次の筋を左折し,続く筋を右折して下り坂を進みます。その先の信号のある交差点を越えた右手には亀崎公園があります。公園内には亀崎地区の案内板やユネスコ無形文化遺産に登録された亀崎潮干祭の碑が設けられています。トイレも設けられていますので休憩地点としても利用しましょう。
 衣浦湾の西側に発達した亀崎の街は,はるか昔は海老漁が盛んな街として発展したといい,江戸時代には三河と伊勢を結ぶ海運業の中継地として賑わいました。19世紀になると酒造業が発展して約50軒もの酒蔵が作られたといいます。明治になると亀崎鉄工所や知多木綿に代表される綿織物が発達し,職工の町として繁栄しました。この東西に伸びる街道沿いの建物は,往時の面影を残すものとして人気になっています。



 亀崎公園の南に進んで2本目を左折し,100mほど進んだところには西組花王社の山車蔵があります。亀崎潮干祭の際に曳きだされる5つの山車のうちの1つです。弘化3年(1846年)建造という格調高い優美な山車といいます。唐子が桜の枝を綾渡りする人形が見事といいます。

街かどサロンかめとも
亀崎町4-138



 亀崎公園から東に進んだ右手には街かどサロンかめともがあります。呉服店から譲られたという昔ながらの建物を利用した亀崎地区の観光案内所であり,観光パンフレットやマップを手に入れることができるほか,亀崎を紹介した写真なども展示されるギャラリーも併設しています。地元の人と触れ合いながら休憩することも可能で,休日には喫茶コーナーやマルシェが設けられる場合もあります。亀崎潮干祭の際は案内所にもなり,祭の資料の展示やグッズ販売も行われ,賑わうといいます。ウォーキングの際に休憩施設として利用するといいでしょう。

秋葉社
亀崎町4-80





 街角サロンかめともから亀崎のメイン通りである仲町通りを東へ100mほど進み,細い筋を左に入ったところに秋葉社の入口があります。本殿へは約80段の長い階段を登って進んでいきましょう。階段の途中からは亀崎の街並みと衣浦湾の景色も楽しめます。



 秋葉社は火伏せをつかさどる「火産霊神」が祀られており,遠州秋葉山(現,静岡県浜松市)から文化12年(1815年)に勧請して現在地に創建されたといいます。亀崎の町は明和3年(1766年)に「おしま火事」をはじめ大火が相次いだといい,そのために村人から火伏せに関するあつい願いからこの地に秋葉社が設けられたといいます。秋葉社本殿[市文化]は普段は見ることはできませんが,間口110cm,奥行き120cmと小さいものながら,総ヒノキの入母屋造で精緻な彫刻が施された傑作といいます。天保12年(1841年)に山車の彫刻を製作するため逗留していた彫刻の名匠・立川和四郎冨昌と常蔵昌敬が手がけたといいます。また潮干祭の初日には,山車が神前神社から尾張三社に向かう途中,この神社の前のところでからくりが奉納されるといいます。



 秋葉社の入口からさらに東に進んだところには田中組秋葉車の山車蔵があります。天保8年(1837年)の建造といい,立川流の精緻な彫刻で埋め尽くされ女性的で佳麗な印象の山車といいます。傀儡師という上山からくりが江戸時代に一世を風靡した竹田からくりの貴重な残存例といい,生きた化石とも呼ばれているといいます。



 さらに進んだ先には名物の亀崎饅頭が知られている紀伊国屋本店があります。饅頭でウォーキングの休憩をするのもいいかもしれません。



 紀伊国屋本店から道路の反対側にある細いせこみちと呼ばれる路地を進むと,特徴的な古井戸があります。古くから人々の生活に利用され,酒造りにも使われたという井戸が亀崎地区には10ヶ所ほど点在しているといいます。現在も災害時用などのために残されています。この井戸はテーブルとしても使える休憩スポットになっているといいます。

望洲楼
亀崎町3-7 [公式HP(外部リンク→)]



 紀伊国屋本店から少し東に進んだ左手には望洲楼があります。幕末の安政2年(1855年)に「中口屋」という屋号で料理旅館として創業し,明治はじめに現在地に移され,京都の書家貫菜海屋が宿泊した際に「望洲楼」の屋号をいただったといいます。福沢諭吉や田山花袋,柳田邦男などの著名文化人も宿泊したという記録が残されているといいます。明治20年(1887年)には天皇皇后両陛下が武豊の陸海軍の演習に行幸された際には,6代目の成田新左衛門が手押し車に料理を乗せて武豊まで運んだと手記に残しているといいます。特徴的な建物は市の重要建造物に指定されており,現在も伝統を大切にした会席料理で多くの人をもてなし続けているといいます。



 望洲楼の建物の道路をはさんで反対側には,望洲楼の旧本宅の建物が残されています。現在はハンモックでくつろぐことができるカフェになっており,亀崎饅頭などの地元のお菓子や,西尾抹茶や常滑焼の器などこの地域の銘品を味わえるといいます。



 望洲楼の入口の東側には,中切組・知から力神車の山車蔵があります。文政9年(1826年)の建造といい,潮干祭の山車では最も古く,知多型山車の元祖ともいわれ,その後作られたこの地域の山車にも大きな影響を与えたと言われています。

浄顕寺
亀崎町3-51





 望洲楼の入口から東へ100m弱進んだ左手には浄顕寺(真宗大谷派)があります。林正山と号し,寺伝によると応仁2年(1468年)に蓮如上人が応仁の乱を避けて三河に向かう途中,教化を受けた郷士・神谷刑部左衛門が法名「晴円」を授けられて居宅に草庵を結んだのが寺の始まりといいます(これ以前に光明寺(常滑市大野町)の道場があったとも考えられている)。正徳4年(1714年)には鐘が再建されたとの記録も残されているといいます。寺宝の血判阿弥陀如来絵像[市文化]は,織田信長の石山本願寺攻めに対抗するために宗徒が阿弥陀如来絵像に署名血判したもので,武士や農民など様々な階層の名前が見られることから,多くの階層が団結して一揆に参加していたことをうかがわせるものといいます。絵像はこの地方のものではなく,浄顕寺4世である林正が本願寺に尽くした結果与えられたものと考えられています。



 浄顕寺の道路をはさんだ南側の路地のところには,家の壁面に鬼門地蔵が祀られています。鬼が出入りするという北東の方向に祀られているお地蔵さまで,個人宅が所有しているお地蔵さまは珍しいといいます。今では鬼門地蔵が祀られている家は10数体になりましたが,数十年前には60体ほどが,もっと時代をさかのぼると150体近くあったとも伝えられています。



 浄顕寺からさらに東に進んだところには三軒長屋があります。大正期以前に建てられたという三軒続きの長屋が,改修工事を経て平成29年(2017年)にカフェとして生まれ変わりました。昔ながらの建物で,お茶やお菓子を楽しみながらゆっくりとした時間を過ごすのもいいかもしれません。



 三軒長屋からさらに少し進んだところには石橋組青龍車の山車蔵があります。明治24年(1891年)建造といい,四神(青龍・朱雀)などで装飾された神秘的な雰囲気の山車といいます。帝室技芸員竹内久一作の壇箱彫刻と川口文左衛門作の七宝四本柱は山車装飾としては唯一のものとして大変貴重といいます。唐子が逆立ちする上山からくりが昭和48年(1973年)に復元されたといいます。



 さらに50mほど進んだ左手には東組・宮本車の山車蔵があります。神社に最も近い一番車の山車で,元治2年(1865年)の建造といい,古事記を題材とした神々や日本国の誕生を表現した装飾が施されています。15世紀に始まった潮干祭の山車の元祖ともいわれています。

亀崎渡船場跡・大店坂跡
亀崎町2-239



 東組・宮本車の山車蔵のあるT字路を南下したところの左手に亀崎渡船場跡[市史跡]および大店坂跡の碑と常夜灯が設けられています。昭和31年(1956年)に衣浦大橋が開通するまでは三河方面との主要な交通手段は渡し船でした。江戸時代の知多半島は上方に次ぐといわれる酒の生産地であり,亀崎には50以上の酒蔵があって,出来上がった酒はこの付近から江戸へと運ばれていたといいます。明治初期にかけては亀崎は小江戸と称されるほど賑わい,番屋も設けられて多くの人が船を待ったといいます。橋が開通して船が運航されなくなった現在は,文化5年(1808年)のものという常夜灯が残るのみとなります。また,この付近はかつて大きな商店が並ぶ坂である「大店坂」があって,潮干祭のときには山車を浜に引き下ろす場所だったといいます。現在も祭のときにはこの前の道を通って亀崎海浜緑地に向かい,海へと山車が進んでいきます。

亀崎海浜緑地
神前町







 亀崎渡船場跡の常夜灯から南に進んで国道を渡った先には亀崎海浜緑地があります。広大な芝生広場や砂浜,ハゼ釣りが人気の護岸などが整備された公園で,トイレも設けられているため休憩スポットにも利用できます。この地域は昭和34年(1959年)の伊勢湾台風で被害を受け,その結果防波堤や国道などが海岸沿いに整備されたため,かつて潮干祭の際に行われていた山車の海への曳き下ろしが途絶えてしまいました。そこで,平成5年(1993年)に人工の浜が設けられて本来の曳き下ろしが復活しました。現在でも潮干祭の際には5輌の山車が緑地内の祭ひろばに勢ぞろいし,海への曳き下ろしが行われています。平成29年(2017年)には潮干祭がユネスコ無形文化遺産登録に登録されて1周年になるのを記念して,クロマツが30本植樹されています。
 亀崎潮干祭の山車行事[国民俗]は,例年5月3日・4日の2日間行われ,17世紀末から続いてきたという伝統ある祭りで,ユネスコの無形文化遺産に登録されたことで話題になりました。その昔,神前神社の祭神である神武天皇が東征した際に海からこの地に上陸したという伝説にちなんで,5輌の山車[県民俗]が浜へ曳き下ろされたことにちなんで名前がつけられたといい,「山辺の高山,海辺の亀崎」と高山祭りと並んで評されているといいます。坂を一気に駆け下りた山車が水際で方向を変えて浜に並び,その後海辺の波打ち際に進む様子は圧巻で,祭が最高潮に盛り上がる瞬間といいます。

神前神社
亀崎町2-92 [公式HP(外部リンク→)]







 亀崎海浜緑地から100mほど国道を東に進んだ左手には,亀崎の氏神として篤い信仰を受けてきた神前神社があります。社伝によると初代天皇の神武天皇が伊勢からこの地に東征して上陸した際,里人が小舟に桟橋をかけて出迎えたといい,以来この地を神嵜(かみさき)と呼ぶようになり,それが亀崎という地名になったといいます。その上陸地点に社を建ててお祀りしたのが神社の始まりといい,祭神は神倭磐余彦命(神武天皇)です。慶長17年(1612年)に風や波の被害を受けにくい現在地に移転したといい,明治18年(1885年)には県社に列せられ,現在は東海地方では珍しい子供の神様として信仰を集めているといいます。入口の手水舎のそばには,毎年5月3日・4日に行われる亀崎潮干祭の碑が設けられており,また階段を登った先には大正4年(1915年)に建立されたという亀崎勝景の碑があり,この地が古くからの景勝地であることを物語っています。境内には多賀社や神明宮などの摂社・末社が並び,神武天皇が使用したという伝説がある古井戸も残されています。この古井戸の水に顔を映すと神武天皇にあやかれるといわれ,現在では子供の健やかな成長を祈る「井戸のぞき」として親しまれているといいます。







 境内左手,西側の斜面に向かって続く階段を登ると,少し先に観月亭跡の案内板があります。この衣浦湾を望む景色は月の名所として古くから知られていましたが,広く知られるようになったのは大正天皇の即位後の大正4年(1915年)に行われた大嘗祭がきっかけといいます。その際に使われた京都仙洞御所悠紀殿の屏風に亀崎の名月が描かれ,式で宮内省御用達の歌人・黒田清綱により亀崎の歌が詠まれたことで注目が集まったといいます。その年には月の名所となった高台に観月亭が設けられ,以降は中秋の名月には毎年観月茶会が行われ,人であふれていたといいます。昭和34年(1959年)の伊勢湾台風で残念ながら観月亭は倒壊し,現在は案内板のみです。



 観月亭跡からさらに裏手に進んだ先の広場には亀崎城跡の碑があります。緒川城主の水野信元が,衣浦湾の監視などを目的に船奉行であったという稲生政勝に築城させたといいます。かつては北側の高台に碑があったといいますが,干拓工事のために城跡が削られたため現在地に移されたといいます。城跡の碑に並んで黒田清綱の「万代もかはらぬ影を亀崎の波にうかべて月照りにけり」の歌碑があり,同じ広場には大正14年(1925年)に高根公園に建てられ,昭和37年(1962年)に現在地に移されたという忠魂碑も設けられています。



 神前神社の入口に戻り,さらに東に進んだところには西村辰男の顕彰碑と銅像が設けられています。

海潮院(知多四国54番)
亀崎町1-130







 神前神社から東へ50mほど進むと左手に海潮院(曹洞宗)があります。亀嶺(きれい)山と号し,寺伝によると文明年間(1469〜87)に安窓全公によって創建され,当時は少し北の北浦にあって海潮庵と称したといいます。大永年間(1521〜27)にこの地にやってきたという亀崎城主の稲生政勝が,刈谷城主の水野家に従って海潮庵を菩提寺とし,孫の重政が元和年間(1615〜)に現在地に移して海潮院と改めました。もともと知多四国霊場の54番札所であった美浜町野間の龍松院が明治の廃仏毀釈で廃院になったことから,別の寺を経て当院に弘法大師像が移され,明治34年(1901年)から当院が知多四国霊場第54番札所となりました。堂には失明者開眼之杖がまつられており,これは大正元年(1912年)に東春日井郡水野村(現,瀬戸市)の加藤鉄次郎という男性が,当院の大師像前で突然見えるようになったといい,そのお礼に残した杖といいます。





 海潮院から国道247号線を100mほど進んだ次の信号を左折し,さらに100mほど進んだ右手には洲の崎公園があります。広大なグラウンドを備えた公園で,トイレなどもあるので休憩地点として利用できます。

大坂
亀崎町2-35付近



 洲の崎公園の先の筋を左折し,そのまま100mほど道なりに進んだ左手の階段を登っていきます。階段を上がったら右折して登り坂を100m強進むと,次郎長峠という坂の上の交差点に到着します。清水の次郎長がこの道を通ったかもしれないという逸話があるそうです。





 この交差点の左手からは,大坂がのびています。亀崎は海辺から山がそそり立っていることから大小様々な坂があり,主要なもので21もあるといいます。その中でもこの大坂は特に魅力的な景観を見せる坂道で,民家が両側に密着し多くには海が望めるこの景観は,「亀崎の尾道」と紹介されているそうです。ベンチも設けられており,景観を望みながらゆっくりとした時間を過ごすのもいいかもしれません。





 次郎長峠の交差点を北方から見て右折し,行者坂という案内板にしたがって少し進んだところには天命地蔵が祀られています。海運業・材木問屋の間瀬作兵衛が京都に訪れた際に,倒れている地蔵が意外に軽かったことから,何かの縁と思いここに堂を建ててまつったといいます。







 天命地蔵からさらに行者坂を下って進んでいきます。この付近からは亀崎と衣浦湾を望む素晴らしい景色を楽しむことができます。坂を下りきったところには,行者坂の名前の由来になっているであろう行者堂があります。



 行者堂からさらに100mほど進んだ右手には,亀崎の湯があります。午後のみの営業ですが,日帰りで入浴することが可能です。亀崎の散策の最後に,しっかりと汗を流すのもいいかもしれません。



 亀崎の湯から200mほど進んだ2本目の筋を右折した先には,北浦神明社があります。宝暦13年(1763年)にこの付近が浜亥新田として開発されたのちに守護神として勧請されたと記録されていますが,社伝によると文化12年(1815年)の建立といいます。今は付近は工場が建てられています。

ゴール:JR武豊線・亀崎駅



 北浦神明社から南に戻って,そのまま一方通行の道を逆走する形で上り坂を登っていきます。さらに200m強進むと国道366号線に突き当るのでここを左折し,200mほど進んだ次の信号を右折し,さらに道なりに200mほど進んだ「亀崎駅前」交差点を右折すると,スタートした亀崎駅に戻ってきます。JR武豊線の電車がおよそ30分ごとに運転されていて,東海道線との分岐駅である大府駅まで約15分,名古屋駅までは約40分(日中は大府駅で乗り換え)で戻ることができます。電車の発車までは歴史ある駅舎などをじっくりと楽しむのもいいでしょう。

写真使用数:74

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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