本文へスキップ

ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県知多市:岡田コースOKADA

2018年8月探訪。2018年8月27日作成

【コース】 距離:約6.5km
 古見駅から市中央部の知多木綿の里・岡田をめぐります。知多四国の霊場と,知多木綿の生産で栄えた岡田の古い町並みなどが見所のコースです。

≪コース≫ 名鉄・古見駅〜古見神明社〜妙楽寺〜龍雲院〜福生寺〜種徳寺〜毘沙門堂〜岡田中央公園〜雅休邸〜料理旅館桝磯〜岡田神明社〜旧中七木綿本店〜慈雲寺〜知多岡田郵便局〜木綿蔵ちた〜おかき屋辰心〜阿弥陀堂〜知多バス岡田バス停


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:名鉄常滑線・古見駅





 スタート駅は名鉄常滑線の古見駅です。名鉄名古屋駅から中部国際空港行の準急を利用して約30分でいくことができます。特急は停車しませんので,特急に乗車した場合は途中の太田川駅で乗り換えてください。本数は準急・普通ともに1時間に2本程度です。

古見神明社
新知椿1





 古見駅から出て目の前の道を右手に100mほど進むと右手に古見神明社があります。創建は不詳ですが元々は同じ村内の森下というところに鎮座していたといい,明徳3年(1392年)に現在地に移された古社といいます。寛永13年(1636年)の銘がある棟札が残されているといいます。階段を上がっていった先に社殿が設けられており,境内には徳松稲荷神社も設けられています。

妙楽寺(知多四国79番)
新知下森29





 古見神明社の道路をはさんで反対側に妙楽寺(真言宗豊山派)があります。白泉山と号し,明徳元年(1390年)に後花園天皇の勅願所として創建されたという古刹で,往時は七堂伽藍を備え広大な寺領を有したと伝えられています。しかしながら天正6年(1578年)に兵火にかかり,本尊の春日定朝作という大日如来や薬師如来,地蔵菩薩などは守られたものの堂宇がことごとく焼失し,さらに豊臣秀吉の時代には寺領が没収されるなど苦難を味わいました。寛永12年(1635年)7世政秀法印によって現在地に再興されました。



 境内には知多四国霊場の開創に尽力した亮山阿闍梨を祀った開山堂が設けられています。亮山師は安永元年(1772年)に犬山藩士のもとで生まれ,12歳で出家して名古屋東照宮の守護寺であった天王坊の亮巌法印に師事して,文化3年(1806年)に当寺の住職となりました。文化6年(1809年)に弘法大師の霊夢をみて知多四国霊場の開創を発願します。岡戸半蔵,武田安兵衛らと協力して16年の歳月をかけ,苦難の末に文政7年(1824年)に霊場づくりを完成させました。他にも灯明台の建設や河川改修計画にも才を発揮し,学徳兼備の高僧と仰がれたといいます。晩年は福生寺に隠棲し,弘化4年(1847年)に福生寺で亡くなりました。墓は妙楽寺に設けられています。



 境内にはイヌマキの保存樹の下に亮山阿闍梨の像が設けられ,霊場開創の大願成就を果たした穏やかな表情が印象的です。また400年以上昔に地蔵池から引き揚げられたといういぼ地蔵が祀られ,患部を石でなでると完治するといい,治ったら石を倍にして返すという風習があるといいます。

龍雲院
新知会下14







 妙楽寺から県道を150mほど南下して,次の筋を右折し,200m強道なりに進んだ右手に龍雲院(曹洞宗)があります。普門山と号し,応永33年(1426年)に足利義満に仕えたという長井左衛門入道道書による創建といいます。当初はこの南の新知永井に長井庵が設けられ,永正6年(1509年)に長松院と改められますが,慶安初年(1648)に現在地に移して,龍雲院と称するようになったといいます。御花園天皇の子供である熙邦(てるくに)親王が兵乱を避けてこの地に訪れたという伝説があるといい,位牌もあって「てるくにさん」と呼ばれてきたといいます。古見城主の木像や墓もあるといい,この地域の歴史を今に伝える寺宝が多く残されているといいます。四国直伝弘法の第77番札所に指定されています。



 龍雲院の入口から左折して東方向に進み,続く筋を左折して200mほど進んで「新知小学校南西」交差点を越え,さらに200mほど進んだ突き当りを右折して住宅街を進んでいきます。コブシの木が並ぶ印象的な街路樹を抜けて進みます。

福生寺(知多四国78番)
新知東町1-8-3





 住宅街の街路樹を抜けて300mほど進み,「新知台2丁目西」交差点を右折します。さらに200m弱進んだ「新知東町1丁目」交差点を右折したところに福生寺(真言宗豊山派)の入口があります。宝泉山と号し,永禄3年(1560年)に精真法印による創建と伝わり,かつては真如坊と称したと伝わります。しかし大正2年(1913年)に大火に遭って古文書が焼失し,その後の変遷については詳しくはわからないといいます。火災の際は木造の大黒天像のみがかろうじて運び出され,直ちに堂裏の宝泉池に安置するとただちに大雨が降りだし,火災が鎮まったといいます。以来,防火・厄除け・開運の守護神として「やけん大黒天」としてあつい信仰を受けているといいます。堂内のやけん大黒天は春の巡礼シーズンなどのみ拝観できますが,境内には信者による寄進というコンクリート製の大黒天も設けられています。弘化4年(1847年)に知多四国霊場を開創した亮山阿闍梨は,この寺で亡くなったといいます。



 福生寺から東に進んだところには,イトーヨーカドー知多店があります。フードコートなども備えたショッピングセンターなので,ウォーキングの休憩地点として活用できます。

古見御嶽神社
新知東新生64



 福生寺から西に200m弱進んだ「坊ノ下」交差点を越え,そのまま国道を西へ進んで2本目を右折し,そのまま300mほど道なりに進んで左に曲がった先の分岐を左に入り,さらに300mほど先の突き当りを左折して100mほど進むと右手に古見御嶽神社があります。御嶽信仰にまつわるものも含めた多くの石造物があり,高台にあって眺めも楽しめる神社です。



 古見御嶽神社から出て右手に進み,そのまま道なりに200mほど進んで右に入り,さらに100mほど先の太い筋を左折して200mほど進むと国道155号線に再び合流します。ここを右折して国道を200mほど進むと左手に知多市立中央図書館があります。知多市の歴史などを調べるのにも活用できます。

種徳寺
岡田海渡56-1



 知多市立中央図書館から国道を300m南下して「中田」交差点を左折します。そのまま道なりに200mほど進むと丸藤製菓[公式HP(外部リンク→)]があります。様々な種類のこだわりのえびせんべいなどを購入することができる直売所が設けられています。



 さらに250mほど進んだ次の筋を右折し,100mほど先の突き当りを左折して150mほど進むと左手に種徳寺(臨済宗妙心寺派)があります。願王山と号し,応永8年(1401年)に伝海和尚により創建され,大永元年(1521年)に實通祖秀により再建されたといいます。当初は同じ岡田地区の慈雲寺の末寺で種徳庵と称しましたが,昭和16年(1941年)に種徳寺と改められました。本尊は観世音菩薩で,明和3年(1766年)に落田から引っ越したという地蔵など多くの仏像が安置されています。他にも薬師如来がまつられた地蔵堂があり,旧暦10月8日と毎月12日には薬師祭が行われて人々に親しまれているといいます。



 種徳寺の先には里組山車蔵があります。蔵の中には日車と呼ばれる里組山車[市文化]があり,毎年4月の岡田春祭りの際などに他の2台の山車と共に引き出されます。元禄2年(1689年)には山車が存在していたという記録があり,三度にわたって新造したといい,現在のものは文久3年(1863年)に藤田佐右衛門らによるといい,各部に龍や松,虎などの細かな彫刻が施されています。悪源太平治合戦などのからくり人形が奉納され,前台でも人形が奉納されるといいます。



 ここから先に進んだ右手には竹内合名の赤レンガの印象的な建物があります。ここでは大正時代には綿布工場が経営され,蔵は今でも事務所に使われているといいます。その前には芝居小屋喜楽座跡の案内板があります。大正14年(1925年)に地元木綿工場の経営者など40人が出資して設けられた2階建ての本格的な芝居小屋がここにあったといいます。当時3000人もいたという木綿工場の従業員や付近の住民の娯楽の場として大いに賑わいました。戦後は映画の上映なども行われ,著名人も呼ばれたようですが,時代の流れにより平成7年(1995年)に取り壊されたといいます。



 さらに進んだ先の左手には松田邸の塀が残されています。松田家は江戸時代の中ごろからこの地で丈庵という屋号で医者を続けた家系といい,昭和からは歯科医になったといいます。大正初期に設けられたという塀は,上に大黒様や恵比寿様の縁起物の瓦が設けられています。

毘沙門堂(多聞天)
岡田高見75



 松田邸の塀から東に50mほど進んだ右手に毘沙門堂があります。正徳年間(1711年
頃)に百姓の徳左衛門が海岸で肥料にする海藻を取っていたところ,不思議な光で輝く多聞天が流れ着き,家で安置してお祈りをしたところ絶大な御利益があったといいます。徳左衛門の死後に多聞天を祀る毘沙門堂(多聞天は別名毘沙門天ともいわれる)が設けられ,村人によって融通念仏が唱えられるようになり,岡田中組の守護仏として信仰されてきたといいます。拝殿の隣には十王堂もあり,閻魔大王など十人の王が祀られています。



 毘沙門堂の奥には中組山車蔵があります。中には雨車と呼ばれる中組山車[市文化]があります。天保10年(1839年)に制作されたという岡田の山車の中で最も古く,大きい山車になります。独自のからくり人形の上演に適した形をしているといい,梶人が16人必要という大きいものになっています。



 毘沙門堂の前のT字路を左に入って北上すると、右手に竹内久良男邸の蔵があります。昭和2年(1927年)建築という洋風の蔵になっています。

岡田中央公園
岡田開戸63





 竹内久良男邸の蔵の先を左に入って道なりに進むと,岡田中央公園に到着します。トイレも設置されており,ウォーキングの休憩にも最適です。公園内には天然記念物の碑やニュートンが重力を発見した由来の木を移したと伝わるニュートンのリンゴの木があります。



 岡田中央公園から北側の通りに出て,100mほど進んで左手に岡田まちづくりセンターがあります。センター内に観光協会があり,観光地図などを手に入れることができますので積極的に活用しましょう。岡田村は江戸初期は人口700人ほどの農村にすぎず,副収入として機織りが行われるにすぎませんでしたが,享保年間(1716〜35)に中島七右衛門と竹内源助が知多木綿の販路を全国に拡大しました。明治32年(1899年)には竹内虎王により動力織機の特許が取得され,昭和30年代ころまで知多木綿の生産拠点として大いに賑わいました。今でも古い町並みの散策が楽しめる場所です。

雅休邸(旧岡田医院)
岡田開戸24



 岡田まちづくりセンターから進んで歩道橋のある交差点に進みます。この交差点の愛知銀行のある付近には,岡田の銀行の変遷を示した案内板が設けられています。





 交差点を右折すると少し先の左手に雅休邸(旧岡田医院)[国登録]があります。昭和4年(1929年)に竹内雅休氏が医院併設の住居として建設したもので,庭園や廊下に囲まれた和室,漆喰の塗装が施された応接室など昭和初期の建物を今に伝える貴重なものです。なお,建物内部の見学の際には予約などが必要です。雅休氏は豊橋陸軍病院の院長を退職後,岡田医院を開業して知多郡の医師会長を務めるなど,この地域の医療を支えました。昭和27年(1952年)に亡くなるまで診療を続けたといいます。



 雅休邸から50m強進んだ十字路を右に入ったところには伝承知多木綿つものきがあります。平成13年(2001年)に設けられた機織りの体験施設で,糸紡ぎやコースター作りの体験ができます。つものきとは糸車で糸を紡いでできた形の,この地方での呼び方といいます。



 十字路に戻って正面に進むと文四郎坂があります。明治時代に隣の家に住んでいた土井文四郎家の屋号が坂の名前になっています。



 坂を上った先には高見・安嶋屋敷の秋葉社が祀られています。岡田地区には江戸時代から防火のための秋葉社が各屋敷に祀られ,その数は合計16に及ぶといいます。



 文四郎坂の下の十字路に戻り,東方向に進んで分岐を左に入ったところには手織り工房やまももがあります。こちらも木綿や麻・絹などの機織りの教室で,時期によってはイベントも行われています。

料理旅館桝磯
岡田西島12



 文太郎坂の東の分岐を右に入ると,すぐ右手には開戸東組の防空壕跡があります。昭和18年(1943年)に本土決戦に備えて住民たちが人力で堀ったものといい,当時は入り口が2ヶ所あって,名古屋空襲の際には実際に避難もしたといいます。



 防空壕跡から先の上り坂を進んでいきます。この坂は桜並木が続き,春には満開の桜が見事な空間になります。





 坂道を100mほど上った左手には料理旅館桝磯があります。明治20年代から続く老舗旅館で,江戸時代からみそたまり業を営んでいた土井磯治朗が,知多四国霊場をめぐる遍路のための弘法宿を開業したのが始まりといいます。建物には南の大草城に隣接していた尾張藩家老山澄家の屋敷の古材が利用したといわれ,現在も建築当時の面影を残すといいます。お庭を眺めながら季節の料理をいただける料亭として営業(完全予約制)しています。



 料理旅館桝磯からさらに進んだ分岐のところには,旧大野道の辻地蔵などが祀られています。岡田は古くからの地蔵が多く祀られている場所といいます。



 この筋を左に入ったところには旧弘法宿の岡田屋があります。桝磯と同じく明治20年代から弘法宿を営んでいましたが,大正のころには閉鎖されたと考えられています。桝磯と同じく岡田屋棟梁であった竹内角三が大草城近くの家老屋敷を一部移築して設けられたものといいます。竹内角三は明治から大正にかけて岡田の主要な建物をほとんど手掛けたといい,地域に貢献した人物といいます。



 岡田屋から戻って東へ上り坂を進んだ左手には古民家カフェのいろりや千樹があります。

岡田神明社
岡田中谷35 [公式HP(外部リンク→)]





 いろりや千樹から100m弱進んだ左手には岡田神明社があります。創建は元和8年(1622年)といい,岡田で最も標高が高い千樹山(標高48m)の上に設けられています。明治5年(1872年)には岡田の村社となり,大正元年(1912年)に山神社を合祀しますが,昭和32年(1957年)に再び分けられ,同年に伊勢神宮の古材をいただいて境内地を整備したといいます。広々とした境内にはクスの保存樹もあり,静かで落ち着いた空間を楽しめます。毎年4月16日に近い土日に行われる祭礼の岡田春まつりは,3台の山車が引き出されてからくり人形も奉納され,大変賑わうといいます。

旧中七木綿本店
岡田開戸28



 岡田神明社から戻って桝磯を越えたところを右に入り,道なり下り坂を進みます。途中には江戸時代の寺子屋で,のちに岡田学校の校舎として用いられた泉寿軒があったとされる場所があります。突き当たったら左に進んだT字路の先右手に旧中七木綿本店[国登録]が見えてきます。中七木綿は江戸中期に木綿買い継ぎ問屋を営んでいた中島七右衛門にルーツがあります。明治に入って廃業しますが,明治29年(1896年)に番頭たちが資金を出し合って「中七木綿合資会社」を設立し,岡田で初めて24台の木綿織機を輸入して木綿の製造を行い、最盛期には3つの工場を経営していたといいます。現在残っている建物は大正4年(1915年)に建築されたもので,漆喰塗りの壁や屋号の入った屋根の瓦などが特徴的です。近代の木綿工場の様子を伝える重要な建物として,主屋な長屋門なで6棟が国の登録文化財に指定されました。



 旧中七木綿本店の手前のT字路を右に入って慈雲寺の方に進んでいきます。この途中の広場がお祭り広場といい,4月の岡田春祭りの際には3台の山車が引き揃えられる場所になります。

慈雲寺(知多四国72番)
岡田太郎坊108-1







 お祭り広場から北上して「太郎坊」交差点を越えた先に慈雲寺(臨済宗妙心寺派)があります。白華山と号し,観応元年(1350年)に大野城主一色範光が開基し,当時の臨済宗の名僧として知られる夢窓国師による開山といいます。境内には「一色修理丈夫範光」と記された宝篋印塔が残されています。その後,火災により多くの堂が焼失したため,万治3年(1660年)に寺尾土佐守直龍が寺を再建し,その際に寺尾家の家紋である「三つ扇」が寺紋になったといいます。尾張名所図会にも描かれ,江戸時代が名勝として人々を魅了してきました。京都大徳寺派の管長になった松岡寛慶老子など多くの傑僧を輩出したことでも知られるといいます。本堂は平成18年(2006年)に修復が完成したものです。観音堂は万治3年に設けられた岡田で最も古い建物といい,元々は本堂で本尊は一色範光の念持仏という恵心僧都作と伝わる千手千眼観世音菩薩です。寺宝として200年前に雨乞いで用いられた壺が残されています。この雨乞いの壺は,大変な日照りに悩んだ村人が寺の和尚に相談にいったところ,この壺を持ってきて裏の池で水をくみ,観音様の前で一心に祈ったところ,天の水をひっくり返したような雨がふったと言い伝えられています。





 なお慈雲寺の東側には岡田稲荷社が設けられています。また,慈雲寺の前の「太郎坊」交差点付近も,門前の古い町並みが残されており,じっくりと散策ができます。

旧竹内虎王邸
岡田西島19



 慈雲寺からお祭り広場を戻って突き当りを左折して100m弱進むと,左手に旧竹内虎王邸があります。岡田を木綿の一大産地に押し上げた一人である実業家の竹内虎王は安政2年(1855年)にこの地で生まれ,木綿製造業を手掛けるかたわら,品質向上のための織機の研究に打ち込みました。明治32年(1899年)に竹内式動力織機を発明して特許を取得し,明治34年(1901年)には竹内木綿工場を創業しました。その後,丸登織布へと事業を拡大させています。のちに織機を発明した豊田佐吉もこの地を訪れ,虎王に出会って様々な影響を受けたといわれています。

旧竹中商店
岡田中谷26-1



 旧竹内虎王邸から進んで次の分岐を右に入ったところに旧竹中商店があります。商店の前は岡田を代表する石垣造りの通りになっており,写真撮影の場所などとして知られます。江戸時代初期から米や肥料,木綿などを取り扱った商店で,蔵のところには地下に荷馬車を引き入れるための構造が今も残されています。地元の名士であり江戸時代最後の庄屋も務めたといいます。



 旧竹中商店から東に戻ったところには,竹中商店に来るお客さんの馬をつなぎとめて
おくための手綱掛けが残されています。元々竹藪だった場所に石垣を設けた際,織機のクランクシャフトを埋め込んで作ったものといいます。



 その先には旧知多貯蓄銀行岡田支店跡の案内板があります。明治34年(1901年)から大正7年(1918年)まで知多貯蓄銀行岡田支店がここにあって営業していたといいます。ここには古民家を生かした交流施設という岡田なごやかサロンがあります。

竹之内資郎邸
岡田中谷54





 知多貯蓄銀行岡田支店跡から100m弱進んだ左手に旧竹之内資郎邸があります。江戸時代中期に竹内源助が木綿買継問屋として開業したといいます。その後,順調に事業を伸ばし,竹内家は代々庄屋や村長,郡議などをつとめた名士になったといいます。明治時代に,岡田には竹内姓が多かったことから竹之内に姓を改め現在に至るといいます。現在の竹之内資郎氏は岡田の町並保存会の会長を務め,町並み保存に尽力されている方といいます。趣のある長屋門には門番や従業員の部屋などが残されており,脇には木綿蔵が設けられています。また,門の手前には防火のための秋葉社が設けられています。

知多岡田簡易郵便局
岡田中谷8



 竹之内資郎邸から少し進んだ右手に知多岡田簡易郵便局[国登録]があります。明治35年(1897年)に建築された木造2階建ての洋風建築で,現在も郵便局の機能を有している建物としては最古級の建物といいます。昭和41年(1966年)に郵便局としては手狭になったことから一度郵便局は移転し,以降は家具屋だったりや八百屋の倉庫だったりに使われたといいます。その後,取り壊しの話がありましたが岡田町並保存会が結成され、平成5年(1993年)からは再び郵便局として使われるようになりました。その後,知多市で初めて平成25年(2013年)に国の登録文化財に指定されました。木綿産業で栄えたころは,ここで働く女工さんが便りを出すのに用いたといい,そんな歴史を感じながら手紙を出すこともできます。

手織りの里 木綿蔵ちた
岡田中谷9 [公式HP(外部リンク→)]





 知多岡田簡易郵便局の先の右手には手織りの里木綿蔵ちたがあります。明治末期から大正初期にかけて木綿を収納するために作られた竹内虎王商店旧木綿蔵[国登録]を利用した施設で,岡田のかつても木綿蔵を今に残す建物として貴重なものです。北側正面に作業用の下屋庇があること,湿気上昇を防ぐために床がやや高くなっていること,2階建ての1階・2階ともに大きな1室とし収納空間を広くとれるようにしていることなどが特徴といいます。昭和62年(1987年)頃まで竹内虎王が設けた木綿工場の後継である丸登木綿工場の木綿蔵として設けられていましたが,その後平成7年(1995年)に木綿蔵ちたとして岡田の木綿と機織りの文化を後世に伝える施設に生まれ変わりました。岡田の観光の拠点施設の1つのほか,機織り体験ができる施設にもなっています。



 木綿蔵ちたの先の右手にもなまこ壁の土蔵があります。なまこ状に白漆喰を何度も塗り重ねて手間をかけたもので,大正9年(1920年)に完成したものです。戦争中は飛行機の製造工場となったため,空襲を恐れて黒く塗られたといいます。現在,このような蔵が岡田には90も残されているといいます。

おかき屋辰心
岡田登り27 [公式HP(外部リンク→)]





 なまこ壁の蔵から進んで「登り」交差点を越えた先におかき屋辰心があります。おかきやせんべいなどの製造を行っている竹新製菓の直売所で,飲食施設も併設されていて散策やウォーキングの拠点にできる施設です。なお,おかきなどはインターネットを利用しても購入することができます。



 おかき屋辰心から東に進むと100mほど先の右手には舟橋家の案内板があります。大正12年(1923年)から昭和11年(1936年)まで,ここにあった舟橋家に知多貯蓄銀行岡田支店があったことを示す案内板が設けられています。

阿弥陀堂
岡田堂山2付近



 舟橋家から100mほど進んだ分岐点のところに五右衛門地蔵があります。五右衛門という修験者が村の流行り病を収めるために生き仏となって穴に入り入定したといい,それを悼んで村人が設けた地蔵といいます。



 五右衛門地蔵から右手に進んだところには阿弥陀堂があります。創建は不詳ですが,寛文11年(1671年)の村絵図に記載があることからそれ以前の創建といい,岡田にあった5つの坊のうち東の坊と伝わっています。元々は草ぶきでしたが,天保12年(1841年)に瓦ぶきになったといいます。今も奥組の念仏講が毎月行われ,堂守も交代でつとめて伝承を受け継いでいるといいます。



 阿弥陀堂の先には奥組山車蔵があります。中の奥組山車[市文化]は別名風車と呼ばれ,文久元年(1861年)の制作といいます。屋根部に鶴と松,前棚部に七福神の彫刻があり,唐人が字を描くからくり人形が備わり,滑車ではなく人力の古い形式のからくり人形といいます。

ゴール:知多バス・岡田バス停





 「登り」交差点に戻り,南に県道を下った先にゴールの岡田バス停があります。知多バスの岡田線を利用して,名鉄常滑線の朝倉駅まで約15分で戻ることができます。本数は1時間に1本程度ですので,あらかじめ知多バスのホームページなどで時刻を確認するといいでしょう。

[プラスワン] 知多電力館
北浜町23 [公式HP(外部リンク→)]









 古見駅から海方向へ150mほど,西知多産業道路をくぐった先の信号を左折し,500mほど進んだ右手には中部電力知多火力発電所と知多電力館があります。知多電力館では,知多火力発電所のはたらきも踏まえてエネルギーについて学べる設備が整っており,映像やクイズなどで火力発電所の仕組みなどを学ぶことができる,子供にも人気の施設です。館の隣には自然観察コーナーも設けられており,自然との共生も図っているといいます。事前に予約すれば火力発電所の見学をすることもでき,じっくり時間をかけて楽しむことができる施設になっています。知多火力発電所は昭和41年(1966年)から昭和53年(1978年)にかけて設けられ,ナゴヤドーム12個分にあたる56万6千平方メートルの敷地に6基の発電所があり,現在も日本ではトップレベルの発電量を誇る火力発電所といいます。燃料には液化天然ガス(LNG)を利用し,南側に3つのLNG基地が設けられ,伊勢湾のパイプラインを通じて三重県の川越発電所の基地ともつながっているといいます。

写真使用数:73

←前:佐布里コース / 愛知県知多市 / 次:新舞子コース→

ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
rintaronagano□yahoo.co.jp
□は@に代えてください。

*このページは個人作成のページです。ページに関する内容を,管理者以外に問い合わせないでください。
*個人利用を超える利用をされる場合は,事前にご連絡をお願いいたします。
*永続的なサイト運営・更新を目指してバナー広告が挿入されています。ご理解とご協力をお願いいたします。



































【バナー広告】
<HP作成関連>










<旅行関連>



<お役立ち情報>