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ぼちぼちウォーキングでは,名古屋市周辺のウォーキングをした体験記をまとめています。

愛知県知多市:八幡・朝倉コースYAWATA & ASAKURA

2018年8月探訪。2018年8月16日作成

【コース】 距離:約9.9km
 市北部の朝倉・寺本駅周辺をめぐります。市では最古の法海寺や知多四国霊場の龍蔵寺・栖光院など貴重な文化財が多い社寺をめぐっていきます。

≪コース≫ 名鉄・朝倉駅〜知多市役所〜歴史民俗博物館〜龍蔵寺〜青少年会館〜八幡神社〜善重寺〜秋葉神社〜極楽寺〜天白社〜光明寺〜法海寺〜栖光院〜大祥院〜本覚寺〜つつじが丘緑地〜つつじが丘公園〜慈眼院〜牟山神社〜名鉄・朝倉駅


(国土地理院発行 1/25000地形図を利用して作成)



スタート:名鉄常滑線・朝倉駅



 スタート駅は知多市の中心駅である名鉄常滑線の朝倉駅です。名鉄名古屋駅からは中部国際空港行きの特急を利用して約20分,準急の場合は約27分で行くことができます。本数は特急と準急それぞれ30分に1本程度です。朝倉駅の北側に出てスタートしましょう。駅には知多市の観光案内板もあるので,観光地の場所を確認しましょう。

知多市役所
緑町1 [公式HP(外部リンク→)]





 朝倉駅の北口から線路沿いに東方向に300mほど進んだところに知多市役所があります。知多市の行政の中心で,観光パンフレットなどを手に入れることもできるので散策の前の情報収集に活用するといいでしょう。知多市の前身である知多町は昭和30年(1955年)に八幡町,岡田町,旭町が合併して誕生し,昭和45年(1970年)に市制が施行されました。市になった当時の人口は4万人だったのが,現在は宅地開発が進んで倍以上になっています。市役所の入口には,この地域の伝統芸能として知られ,現在の上方漫才のルーツと言われている尾張万歳の碑,知多青年会議所による日時計のモニュメントなどがあります。





 また,市役所の東側には知多市の体育館と勤労文化会館があり,体育・文化施設が集まっている場所になります。

知多市歴史民俗博物館(ふゅうとりい・ちた)
緑町12-2







 知多市役所から前の道を北東方向へ300mほど進むと左手に知多市歴史民俗博物館があります。昭和37年(1962年)にこの地域の海が工業地帯として埋め立てられ,漁業が衰退することになった際,その民俗資料の保存の必要性が叫ばれて昭和43年(1968年)に知多町民俗資料館として開館しました。平成11年(1999年)に現在の知多市歴史民俗博物館として新装開店し,現在に至っています。知多市のマスコットキャラクターである「ふゅうちゃん」と歴史のヒストリーを合わせて,ふゅうとりい・ちたの愛称があります。館内では知多市の農業や漁業,知多木綿など歴史・民俗に関する様々な展示や,企画・特別展示なども行われています。常設展示の入口から入って突き当たったところには知多木綿の展示があり,岡田地区を中心に作られている知多木綿について様々な資料や映像などで紹介し,知多木綿生産道具および木綿問屋関係資料[県民俗]として文化財指定されています。奥の知多の漁業に関する展示では,この地域で盛んだった打瀬網漁で用いられたもとして貴重な全長15mに及ぶ打瀬船「藤井丸」[市民俗]が中央にあります。打瀬網漁とは,船に平行に2,3枚の帆を張り,風を利用して袋網を引き揚げる漁で,クルマエビやカレイ,スズキなどを取るのに用いられるといいます。昭和30年代には東京湾や伊勢湾などで広く用いられましたが,効率性などから現代は姿を消し,北海道の野付湾で用いられるのみといいます。このコーナーでは漁業で用いられていた様々な貴重な用具も展示されており,1000点以上の道具が知多半島の漁撈道具附漁撈関係帳面類[国重文]として文化財登録されています。この他にも梶廻間古窯(知多市新知)で発掘された12世紀の梶廻間古窯出土品[市文化]291点は茶碗などが完全に残っているものが多いのが特徴で,知多半島の古窯群の成立を考えるうえで貴重なものといいます。



 知多市歴史民俗博物館から先に進むと緑広場があります。この付近は知多運動公園として陸上競技場,野球場,プールやふれあい広場などの体育施設がまとまっているところです。

龍蔵寺(知多四国81番)
八幡小根138



 緑広場の先の横断歩道を渡って,その先の筋を右折し,道なりに進みます。100m弱進んだ左手には火防のための秋葉神社が祀られています。



 さらに100mほど進むと国道155号線に突き当たります。この右手には寺本饅頭本舗など和菓子屋が3軒並んだ一角があるため,グルメ目的で休憩するのもいいでしょう。







 ここから国道155号線を東方向に少し進んだ左手には龍蔵寺(曹洞宗)があります。巨渕(こえん)山と号し,元和3年(1617年)に,元々京の公卿であった天室春公首座が地蔵菩薩を奉安してこの地に移り住んだが始まりといいます。その時期にこの付近に疫病が流行したため,首座が地蔵菩薩に祈祷したところたちまち平癒したため,住民が感謝して本堂など創建したといいます。寛政2年(1790年)に堂宇が焼失しますが,のちに再建されました。境内は本尊が地蔵菩薩ということもありたくさんのお地蔵さまが奉納されており,2本のイブキの保存樹もあって神聖な雰囲気が感じられるお寺です。





 龍蔵寺の入口から先の筋を左に入ったところには小根神明社があります。創建は不詳で,天照皇大神など2柱が祀られており,張州府誌にも記載があるといいます。



 さらに国道155号線を進み,「堀切」交差点を右折して100mほど進んだ先には名鉄寺本駅があります。準急と普通が停車し,1時間に合計4本程度列車が運転されていますので,中継地点として利用ができます。

知多市青少年会館
八幡堀切91-1



 「堀切」交差点から国道155号線を東へ100m弱進むと左手に知多市青少年会館があります。青少年活動団体の拠点として平成11年(1999年)にオープンしました。この会館は八幡地区に伝わる尾張万歳[国民俗]の練習拠点として知られています。尾張万歳は正応年間(1288〜93)に長母寺(名古屋市東区)の無住国師が法華経の教えを伝えるために村人に伝えたという説があり,烏帽子姿で扇子を持つ太夫と大黒頭巾をかぶって鼓を演奏する才蔵が組となって歌い舞うものです。この地区は元々長母寺領であったことから尾張万歳が演じられるようになり,農閑期の貴重な収入源として遠くは関東や関西の各地に出かけて公演したといいます。戦後は演じる人が激減したため,現在は保存会を結成して伝統の継承のために活動が行われています。

八幡神社(尾張八幡神社)
八幡荒古後87 [公式HP(外部リンク→)]







 知多市青少年会館から国道の歩道橋を渡り,右方向に分岐する細い筋を300mほど進むと左手に八幡神社(通称は尾張八幡神社)があります。広い境内にはクスノキやイチョウの保存樹もあり,歴史を感じさせる遺物も多いです。創建は不詳ですが,南西の法海寺の鬼門鎮護のために設けられたと伝わり,寺本の4つの村の総鎮守として住民から崇敬を受けてきたといいます。本殿[市文化]は貞享2年(1685年)の造営で,三間社流造檜皮葺といい桃山時代の様式を残す貴重なものといいます。また本殿の基礎は黒鍬と呼ばれる石組集団による城積みといわれる伝統的な技法で石が積まれているといいます。彼らは石組のほかにも堤作りなどを得意とし,知多半島のため池作りでも活躍したといい,農閑期には尾張・美濃・三河だけでなく近畿地方まで出稼ぎに行き,その技術が各地で高く評価されたといいます。毎年10月15日の直前の日曜日に行われる神幸祭は別名お渡りともいい,西のお旅所である天白社までの往復1.6kmを行列します。神輿のほかに江戸末期に作られたという屋台を載せた飾り車が4組も続きます。神宝となっている宝暦5年(1755年)に作成された「八幡宮祭礼式の図」では,3台の山車が描かれておりかつては山車も行列に加わっていたことがわかるといいます。

善重寺
八幡荒古前110-1 [公式HP(外部リンク→)]







 八幡神社から南方向に進んで名鉄の踏切を渡り,その先の筋を右折して50mほど進むと右手に善重寺(真宗大谷派)があります。功徳山と号し,大永6年(1526年)に岐阜県久瀬村(現,揖斐川町)に天台宗の寺院として創建され,慶長5年(1600年)に阿弥陀如来を本尊とする浄土真宗の寺院となりました。昭和61年(1986年)に現在地に善重寺の知多の支院として建立され,平成20年(2008年)に活動の中心になっていたこちらが本院となったといいます。

極楽寺
八幡種池66



 善重寺から150mほど進んだ突当りを左折し,さらに200mほど進んで橋を渡った先の突き当りを左折し,続く筋を右折します。200mほど先の突き当りを左折して続く筋を右折し,その先の広い筋を車に注意して渡って道なりに200mほど進みます。途中にはため池も設けられ郊外の自然を感じることができます。







 突き当りを右折すると少し先の右手の山の上に秋葉神社があります。創建年代は不詳で,山の上の景色が望める場所にあります。





 秋葉神社の先には極楽寺(曹洞宗)があります。泉養山と号し,天正10年(1582年)に庵が設けられ,慶長元年(1596年)の開山と伝わります。本堂に安置されている聖観音菩薩坐像[市文化]は鎌倉時代の作といい,当時の彩色が残され上半身が堂々とした像といいます。地蔵堂に納められているのは簡素な作りの一木造である鎌倉時代の延命地蔵菩薩立像[市文化]です。他にも永正6年(1509年)の銘があり寺本の地名がみられる鰐口[市文化]や文政13年(1830年)の涅槃像図などを有するといいます。





 極楽寺から先に進んだ突き当りを右折してそのまま広い筋を横断歩道で渡り,100mほど進んだ次の筋を右折して100mほど進むと,山の上には津島神社があります。嘉吉3年(1443年)の建立といい,明治13年(1880年)に再興されたといいます。大正5年(1916年)に八幡神社に合祀されますが,昭和24年(1949年)に再び現在地に移されたといいます。

光明寺
八幡中島32



 津島神社の西の右折する前まで戻って右折し,北方向に道なりに200m橋を渡って進み,突き当りを右折して「中島」交差点を越えた先を右に入ったところに天白社があります。創建は不詳ですが,寛文9年(1669年)建立の棟札があるといいます。八幡神社のお渡りの御旅所になっているといいます。





 天白社から100m弱進んだ突き当りを右折した先に光明寺(曹洞宗)があります。中嶋山と号し,慶安2年(1649年)または寛永20年(1643年)の創建と伝わり,本尊は釈迦如来で,境内左手の堂にはやけん地蔵や阿弥陀如来が祀られ,印象的な保存樹の2本のクスやイブキもあります。寺宝には円空仏もあるといいます。四国直伝弘法の82番札所に指定されています。



 光明寺から南のT字路に戻って右折し,その先の突き当りを右折した先に航海の安全を守る青峯観世音菩薩が祀られています。

法海寺
八幡平井19







 青峯観世音から道なりに進んで八幡まちづくりセンターの手前を左折して南下します。50mほど進むと法海寺(天台宗)の境内になります。薬王山と号し,天智天皇7年(668年)に新羅国明信王の太子道行上人が開祖したとの伝説を有する古刹です。道行は草薙剣を盗んで新羅へ逃亡しようとして星崎(名古屋市南区)の地に幽閉され,のちに寺を設けて天智天皇の病を治したといいます。そのため天皇は自ら刻んだ薬師本尊と薬王山法海寺の勅額を与えて保護し,伽藍が整備されたと伝わります。かつては12坊の伽藍を有したといいますが,慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの前哨戦で九鬼氏により一山が焼失し,のちに3坊が再興され現存するといいます。昭和48年(1973年)と平成3年(1991年)の発掘調査で奈良時代の丸瓦などが発掘され,知多半島では唯一という寺院遺構が見つかりました。法隆寺,鳳来寺(現,新城市)と並んで日本三薬師の1つとされ,東海薬師霊場の47番札所にもなっています。寺宝も多く,室町時代の涅槃図,金剛界及び胎蔵界曼荼羅,紅頗黎色阿弥陀如来図[いずれも県文化]の仏教画をはじめ平安時代の毘沙門天立像[市文化]など11件の市の指定文化財を有します。境内には立派な風格の4本のクスノキがあり,境内の落ち着いた雰囲気にマッチしています。



 境内南に寛文6年(1666年)建立という仁王門[市文化]があり,平成21年(2009年)に修復されて古刹の入口にふさわしいたたずまいとなりました。



 境内には常光院,大乗院,吉祥院の3坊があります。いずれも慶長5年に焼失したのちに再建されたもので,四国直伝弘法の札所にもなっています。常光院は境内の北西にあり,昭和末期に新築された新しい建物になっています。鎌倉時代の不動明王立像[市文化]は高さ50.4cmで,不動明王の割には穏やかな顔が印象的な像といいます。





 大乗院は境内の東にあり,本尊は阿弥陀三尊像[市文化]です。中尊の阿弥陀如来は鎌倉時代作で穏やかな表情や入念な彫の衣文など優れた仏師による彫像と考えられています。脇侍の合唱した勢至菩薩と蓮台を持つ観音菩薩は南北朝時代の作といい,光背はいずれも江戸時代のものといいます。本堂内には弘法大師ゆかりの井戸もあるといい,毎年6月には子供の虫封じ井戸のぞきの祈祷会が行われるといいます。



 境内の南西にある吉祥院も幾度の荒廃を経験して現在に至るといいます。堂内の阿弥陀三尊像[市文化]は鎌倉時代の作といい,中尊の阿弥陀如来は来迎印を結んで直立し,衣文が下半身に流れるようで脚の部分で省略するという平安時代の技法が用いられているといいます。また両脇の勢至菩薩と観音菩薩は前かがみになり,来迎時に前から風を受けているように表現されているといいます。

栖光(せいこう)院(知多四国80番)
八幡観音脇25







 法海寺の仁王門から出て右手に進み,西へ300mほど進むと左手に栖光院(曹洞宗)の入口があります。海嶋山と号し,元亀元年(1570年)以前の創建といい,元々は真言宗で海嶋山慈眼寺といって栖光庵と慈林坊を末寺とする一山だったといいます。天正5年(1577年)の恵了和尚のときに栖光庵1寺に合併して曹洞宗となり,昭和17年(1942年)に栖光院となりました。境内入口には趣ある仁王門と樹齢850年と言われる大楠がそびえ,クロマツの保存樹もいくつかあって右手には本堂(ただし2018年現在は工事中)が設けられています。白い築地塀が設けられた階段をのぼった先の小高い丘の上には観音堂と大師堂が設けられています。観音堂は寛文2年(1662年)の建立といい,本尊である聖観世音菩薩が祀られており,秘仏で33年ごとの御開帳といいます。弘法堂には高名なすがた弘法(影弘法)があり,これは大師像がまつられたお茶所で巡拝者の接待用に長時間火を焚いていたところ白壁に大師像の跡が現れたというものです。裏山へ続く石段には四国88ヶ所の石仏の「準四国88ヶ所」が並んでいます。





 栖光院の階段からまっすぐ東に進み,先の突き当りを右折して150mほど進むと新町公園に突き当たります。この分岐を左に進んだ先には御嶽神社の入口があります。明治13年(1880年)に設置が公許されたといい,山の上に社殿などが設けられています。

大祥院
八幡普ケ脇21







 御嶽神社の境内を抜けて南側の出口から出て,そのまま150mほど南下します。2本目の八幡新町集会所のところを左折し,300m弱進んだ先の分岐を左に進み,100mほど進むと左手に大祥院(曹洞宗)の入口があります。瑞雲山と号し,嘉吉2年(1442年)に英巴入道が草創して春慶融公和尚が開山となったといい,永禄3年(1560年)頃に中興されたといいます。寺宝に鎌倉時代作の聖観世音菩薩坐像[市文化]があり,明快な表情で引き締まった印象を受ける鎌倉時代の表現を今に伝えるものとして貴重なものといいます。元々は堀之内地区の福養寺の本尊でしたが,明治維新の廃仏毀釈で廃寺になったため大祥院と合併したといいます。境内には桶狭間の戦いで敗れてこの地に逃れたという花井播磨守信忠の五輪塔があります。広々とした境内には保存樹のボダイジュがあり,石仏もたくさん祀られ落ち着いた空間になっています。

本覚寺
八幡杉山60





 大祥院の入口から南に戻って,突き当りを左に入り,続く筋を右折します。さらに次の筋を左折して道なりに進んだ次の筋を右折すると,少し先の右手に本覚寺(曹洞宗)があります。嶺松山と号し,創建年代は不詳ですが,慶長9年(1604年)という記録もあるといいます。本尊は釈迦如来で,境内にはクロガネモチやイブキ,アキニレの保存樹もあって落ち着いた空間になっています。



 本覚寺から100mほど進んだ次の筋を右折した先の右手に神功皇后社があります。応神天皇(八幡大神)の母を祭神として祀っており,安産に御利益があるとして人々に参拝されるといいます。境内には「皇后の井」と呼ばれる清水があって,参拝する人はこの井戸の水で身を清めてから参拝したといい, 清水ヶ丘という地名の由来になっているともいいます。クロガネモチやイチョウの保存樹がある落ち着いた空間になっています。

つつじが丘緑地
つつじが丘1-15-1





 神功皇后社の前のT字路を南方向に進んで先の分岐を右に進み,100mほど進んだ分岐を左に進むと100m弱先の右手につつじが丘緑地があります。つつじが丘地区は昭和50年代以降に新しく造成された住宅地からなり,その住民の憩いの場として設けられている緑地になります。昔からの自然を残して緑地にしているようで,周囲のため池との風景もマッチしています。





 つつじが丘緑地から進んだ突き当りを左折し,200mほど進んだ「つつじが丘」交差点を越えて100mほど先の筋を右に入り朝倉団地の中に入っていきます。団地内を抜けて200mほど進むと,ふれあい通りの遊歩道に突き当たります。つつじが丘の住宅地内に約1kmにわたって設けられている遊歩道で,季節の花なども楽しめるように工夫された道になっています。突き当たった先を右折した先には,地元中学生による壁画が描かれたタイムトンネルを抜けていきます。このふれあい通りの名所になっているといいます。

つつじが丘公園
つつじが丘1-3





 タイムトンネルを抜けてふれあい通りをそのまま500mほど西に進んでいきます。進んだ先の「つつじが丘公園野球場前」交差点を渡って右に進むとつつじが丘公園があります。この地域の中心的な公園で,遊具などが整備されて子どもの憩いの場となっているほか、公園をめぐる遊歩道も整備されています。野球場やグランドなどの体育設備も設けられています。ウォーキングの休憩地点としても活用しましょう。

慈眼院
新知西屋敷15







 「つつじがおか公園野球場前」交差点から西に250mほど進んで,3本目の筋を右折して200mほど進むと,国道155号線と「東屋敷」交差点で合流します。そのまま100mほど進んで国道が右に曲がる地点で左の筋に入り,50m強進んだ右手に慈眼院(曹洞宗)があります。福寿山と号し,往時は天台宗の寺院として創建されましたが,明応9年(1500年)に建物が大破し,文亀3年(1503年)に曹洞宗に改めて正法庵と称したといいます。その後,蔵春庵と正法庵を合わせて1寺にしたといい,明治24年(1891年)に慈眼院と改称したといいます。本尊は聖観世音菩薩で,他に平安時代の地蔵菩薩立像[市文化]を有します。この像は手先が失われ彩色も失われているものの頭体幹部の保存状態がよく,当時を伝える貴重なものといいます。四国直伝弘法の78番札所に指定されています。

牟山神社
新知東屋敷2





 慈眼寺から国道155号線に戻り,国道を東へ50m強進んだ次の筋を右折し,100mほど進んだ2本目の筋を左折するとその先に牟山神社があります。創建は不詳ですが,文明10年(1478年)に再興されたという文書や,寛永19年(1642年)の棟札を有するといいます。朝倉地区の総氏神として多くの信仰を受け,おそらく海上を行き交う船の安全などを願って村民から慕われたといい,神社の前を通る船は帆を下げて敬意を表したともいいます。毎年10月第1日曜日には朝倉の梯子獅子[県民俗]が奉納されます。これは31段の梯子と高さ9mのやぐらの上で雄獅子の面をかぶった2人1組の獅子が曲芸的な演技ややぐら上の離れ業を繰り広げるものです。慶長年間(1596〜1615)に朝倉村にイノシシが出没して農作物を荒らしたため,村人が協力して梯子を作りイノシシを退治したところ,翌年が大豊作になったといいます。そこから毎年農作を祈って梯子獅子を奉納するようになったと伝わっています。

ゴール:名鉄常滑線・朝倉駅



 牟山神社から,神社の左側の細い筋を道なりに進み,道なりに国道を渡って進むと正面にスタートした名鉄朝倉駅があります。名鉄名古屋駅まで特急で約20分,準急で約27分といい,それぞれの種別が30分に1本程度運転されています。普通列車の場合は太田川駅で乗り換えが便利です。

写真使用数:67

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ぼちぼちウォーキング

作成者 Rintaro Nagano
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